生には注意して人道に獻身せねばならないのですが、それすら翁にとつては自然生活であつて、特殊の問題ではありませんでした、翁は世俗の人から見れば非常に特殊な人物ですが、翁においてはそのすべてが自然でありました。畸人だの、義人だのといふ名稱は、翁においては如何にも不似合に感じられます。あるひはこの自然人としての翁こそ實は非常な異色をなすものであるかも知れません。翁は天成の無政府主義者でありました。
私が田中翁に尾して熱心に奔走したことは、時の政權にとつていささか眼ざはりになつたと見えて、わたしの身邊に樣々な黒い手が伸べられてきました。それは田中翁自身に對しても久しい間試みられたことですから、當然のことともいへるでありませう。それは買收の奸策であります。翁の買收額は十萬圓、二十萬圓、三十萬圓と時とともに騰貴して行きました。正當な方法では、あの政府の罪惡を國民の前にかくすことができないのであります。何とかして、どんなくらい醜い方法を以てしても、資本と政權との抱合による大罪惡を隱ぺいしたいのです。田中翁の周圍にゐた栃木縣の政治家達は大部分が買收され、遂には翁を強制的に幽閉して、收賄の罪名を被らしめようとまで企てました。この陰謀から田中翁を救つたのはある遊女屋の樓主でありました。その結果、栃木縣の政治屋たちの間で、收賄金分前の奪ひ合ひが起り、ピストル騷動まで引きおこすに至りました。かういふ有樣ですから、私のやうな青年にも、その闇の魔手が近づいて來たのは當然です。それは何時も警視廳のトンネルをくぐつて來るのです。わたしが政治のからくりといふものを眞に身を以て體驗したのは、この時が始めてでありました。そして政治そのものが人間の罪惡の現はれであることをつくづく見せつけられました。特高課の部長級が種々な口實を設けて、わたしを官房主事または總監に引き合はせようとしたことは幾度か知れないが、ある時は、官房主事が自ら來訪したことさへありました。
僅かに一年間の運動でありましたが、新紀元社の運動は、わたしにとつてよい修業になりました。そして思想上に於ても、從來考えてゐなかつた樣々な疑問が生起して來て、社會主義も基督教も何も解つてゐないことに氣がつきました。しかし、毎週一回『新紀元』講演があり、毎月一回社會研究會があり、隔週ごとに聖書研究會を開き、その間に於て、田中翁と東西に奔走したので、わたしの生活は隨分繁忙を極めました。それも月刊雜誌の經營と編集とを擔當したうへのことですから、骨も折れましたが、生きがひも感じました。
しかし、『新紀元』の一ヶ年間の運動中には、同人の思想的動搖が甚だしい急調を帶びて行はれました。最初に徳富蘆花、蘆花はただ一回『黒潮』の續篇を出したのみで、伊香保に隱れてしまひました。夫婦間のもつれた感情の整理、兄蘇峰との和睦等、いづれも蘆花自身の平和思想の徹底から派生する外廓現象でありました。蘆花としては『黒潮』の續篇など書いてゐる心の餘裕がなくなつたのです。彼自身の生命の緊迫した問題に逢着したのであります。それが遂にパレスチナ及びヤスナヤ、ポリヤナへの巡禮となつた譯であります。そして『新紀元』は遂に蘆花の文章を得ることができなくなりました。
次は『新紀元』の主柱であつた木下尚江の思想の變化であります。蘆花の場合は新紀元社の事業に殆ど影響を及ぼさなかつたが、木下の場合はさうは行かない。これにはいささか困りました。『光』一派の社會主義者が殊更基督教を嘲弄するのを見て、木下は遂に社會主義者に對して袂別の辭を書くに至りました(明治三十九年十月發行『新紀元』第十二號)。もつともこれを書くに至つた木下の心持は複雜であつたと思ひます。堺が發起した社會黨に入ることを謝絶して『堺兄に與へて政黨を論ず』といふ私の長文を『新紀元』に掲げたのが八月で、それに對して幸徳が(既に米國から歸つて)また長文を寄せて『政黨なるものが、單に議會の多數を占めるを目的とする黨派、即ち選拳の勝利のみを目的とする者ならば、其弊や確かに君のいふ通り』だ。しかし『君のいふ如き政黨たらしむるか、將た革命的たらしむるかは、一に我等の責任に存することと思ふ』とあるのが、九月號であります。そして、この社會黨に參加した木下としては明白に去就を決する責任を感じたものでありませう。それに蘆花が『巡禮紀行』を書き百姓生活を始めて、時の青年達の間に大きなセンセーションを起したことも、木下の精神生活に多少の影響を與へたでありませう。この時に當つて『日刊平民新聞』創立の議が起り、私にも參加せよといふ要求がありました。
日刊平民新聞
幸徳がアメリカから歸つて來て間もなく、西川、堺等とともに『日刊平民新聞』創立の相談を始めました。それには竹内兼七といふ若い金持が資金を出すことになつて急速
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