觀に就いての説明には、いつも苦しみました。或る時、翁は谷中村のある農家に『人道教會』といふ看板を掲げました。それは今までの政治運動をきつぱり止めて、人道の戰ひと修業とを始めるといふのでありました。ところが、その『人道』とは何ぞや、といふことになつて簡單明瞭な説明が見當らず、私が訪問すると、すぐにその質問です。わたしが『人道とは人情を盡すの道といふことです』といふと膝を打つて喜びました。それから、わたしが、人情の説明にとりかかると翁はそれを制していひました『いや、人情といふことで充分です。それ以上につけ加へる必要はありません』まことに單刀直入を喜ぶのでありました。
谷中村を政府が買收して貯水池にするには、先づ住民を生活不可能状態に逐ひこまねばならない。ところが住民は隣接の赤麻沼に面する堤防缺潰箇所を自費で修築しました。縣廳の方では政府の許可なくしてこの樣な工事を營むのは不都合千萬だから、打ちこはす、と言ふ。明日はその破壞工作に縣の土木課の役人等が來るといふ、その前夜、田中翁は新紀元社に泊られました。わたしは東京の學生や青年達と共に田中翁を擁して防禦戰に赴くことに決定しました。翁と二人で枕を並べて寢についたが、明日の抗戰がどうなるかと思ひめぐらして眠れませんでした。土木の工夫や役人とわれわれとの間に亂鬪が展開されるのは必然と見られたのです。堤防の上に血の雨を降らすであらうことは想像されるが、見ぐるしい終局にさせたくない、それが私の心配でした。實は怯懦な私自身のことが心配なのです。この時も田中翁は寢るとすぐ高いびきです。翌朝眼を覺ますと、『風を引かないやうに氣をつけやんせう』。四月といふに寒い朝だつたのです。
この日、谷中村に同行した青年達は十八名ばかりでした。谷中の住民約三十名と勢揃ひして假築堤防上に赴いた時には、しよぼしよぼと春雨が降り始めました。
しかるに豫期した幽靈は出て來ませんでした。わたしどもは拍子ぬけの體でありましたが、しかし、かうした機會を無益に過してはならない、わたしは皮切りに激勵の演説を試みました。青年諸君も熱辯を振ひました。雨中の屋外集會は、ただそのままで既に悲壯の極みでありました。
この日は何の事もなく歸京することができました。しかし、わたしは、自分の心持をかへり見て、いささか不安でありました。若し、あの堤防上に亂鬪が起つたとして自分は果して泰然とこれを乘切ることが出來たであらうか? 苟も十字架を負うて社會運動に身を投じたと稱するものが、びくびくしたのでは見つともない、だが、私はそのびくびくの方らしい。私は歸京の翌日箱根太平臺の内山愚童君を訪うて、このことを訴へました。愚童君は暫時の靜坐を勸めてくれました。愚童君の寺は小さな寺ではあるが、見晴らしのよい、靜かなところで、和尚一人の生活であるから、瞑想、靜觀を妨げる何ものもなかつた。わたしが與へられた室で瞑目端座してゐると、何時の間にか、鼻先に芳はしい線香のかをりがただよつて來る。愚童君の心づかひでありました。心はしーんとして閑寂の底に沈む。その時です、突如として心の窓が開け『十字架は生まれながら人間の負うたものだ』と氣がつきました。それは、眞に觀天喜地のうれしさでありました。その時、製茶に專心してゐる和尚のところに行つてこれを告げると『ああ、その通り、それだよ、それだよ!』とうなづきました。それは一週間の坐禪の中ごろのことでした。
伸びる買收の手
「ボンズ(坊主)とクレチャン(基教徒)とが寄つて、アナルシスムの修業をするなんて、東洋でなくては見られない風景だネ」
ルクリュ翁はいかにも興味深げであつたが、マダムはわたしの執えうな基教思想に不滿の面持であつた。
「アナルシストが十字架で惱むなんて、およそ意味がないではありませんか?」
これに對する答はむづかしい。わたしの語學の力では明答し得ない。しかし、既に長い交際が續けられて來たので意は自ら言外に通ずる。不立文字、以心傳心とでもいふところであらう。おぼろげながら、理解は進められた。
ボンズの心理的鍛練には仲々むづかしい難解な點も多いのですが、クレチャンなどの經驗しない別の世界があるのです。内山愚童君はこの鍛練によつて、眞に生死を超越したのです。幸徳等とともに死刑に處せられた時でも、いささかも心を動かす樣子さへ現はさず、極めて平靜に且ほがらかに、絞首臺に登つたといふことです。立會つた教誨師も、これには頭を下げたさうであります。
田中正造翁もたしかに生死を超越してをりました。翁には、しかし、愚童と異つた人格が輝いてゐました。田中翁には最初から生死の問題はなかつたやうです。一生涯を人道の戰ひに捧げて寸分の隙もなかつた翁の心裡には生死の問題などを顧る餘地がなかつたのでありませう。もちろん養
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