も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。
 平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨[#「機蕨」に「(マヽ)」の注記]とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。
 明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。
 その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。

     田中正造翁

『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。
 田中翁は決して自ら宗教や道徳を説きませんでした。しかし、翁の生活そのものが、その巨大な人格の中に温かい光明と熾烈な情熱とをたたへて、わたしを包んでくれるのでした。木下尚江はその著『田中正造翁』の中に『旭山は、翁に對しては殆ど駄々ッ児のやうに親しんでゐた』と書いてゐますが、わたしは翁に尾して活動することを眞に幸福に感じました。谷中村の農家に翁と同じ蚊帳の中に寢せられ、ノミに喰はれて眠られず、隣でスヤスヤ眠る翁がうらやましかつたが、そのことを翌朝翁に談ると『珍客を愛撫してくれるノミの好意は有難く受けるものでがすよ』と笑はれました。それから栃木縣の縣會議員の船田三四郎といふ人の家に一泊か二泊して御馳走になりながら、縣の政治書類を檢討させて貰ひ、さまざまな醜いカラクリを數字によつて明白にすることができて、大へん翁に喜ばれた時などは、とても嬉しく感じました。
 わたしは、翁の思ひ出や、翁自身の思想の變遷やについて、機會のある毎に聞いては筆記しておいたのですが、今は皆散逸して無くなりました。しかし、今わたしの記憶に遺つてゐる翁の全生涯は翁が自ら教育して來た修業史である、といふことです。翁にとつては、政治でも、社會現象でも、自然現象でもすべてが、天授の教訓であります。或る時、翁は、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入り、木下と私と面會に行くと、最初に要求されたのが聖書でありました。わたし達が種々の註解書によつて聖書の研究をするのに對し、翁はただ自分で直讀するのですが、その解釋がまた活きてゐました。翁は善いと思つたことは直ぐに言行に移し表明するのを常としました。ところが、その直
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