が屡※[#二の字点、1−2−22]來著する、景山氏として有名な福田英子氏は頻繁に來訪する。こんなことから、家のお婆さんの私に對する態度は、漸く變つて來ました。明治三十四年七月、私が法學院を卒業した時には、お赤飯をたき大きな鯛の頭付を添へて祝意を表してくれました。その時、その母親の言葉に『これは澄子の志しなんですよ』といふ一語がありました。私ははつと思ひました。暑中休暇で高師の寄宿舍から歸つた澄子さんがお勝手元で働いてゐるのです。そして、靜かにこちらに向いて手をついて『お芽でたう御座います』といふ。それは靜肅そのものでありました。私は胸のときめくのを抑へて、ただ『有りがたう』と答へたのみでありました。
戀する心
「婚約者がありながら、他の娘さんに關係するなんて、たちがわるいですね。そしてまたその兩方と別れてしまふ、そんな馬鹿げたことがありますか?」
マダムは眞劍であつた。マダムは二心といふことが非常に嫌ひなのだ。それにフィヤンセーと分れたなら、子の母と結婚すればよい。その人とも別れるのは二重に罪を犯すことになる。自分の心を輕くするために他の苦しみを顧みないエゴイズムだ。と、マダムは責めてくる。私は答へた。
けれども、その當時の私としては、かうした失敗の生活を一切清算したかつたのです。勿論それは質のわるいエゴイズムに相違なかつたでせう。今考へて見ると、わたしは性の問題については全然無教育であつたことに氣がつきます。いや無教育どころか、非常な惡教育を環境から與へられたのです。十六、七歳から遊廓に入りびたつてゐた兄やその友達の男女關係は放蕩を極めたものでした。さうした人々の行動や談話に自然に感化されたのでせう、わたしも遂に前後をも顧みずに失敗を重ねるやうになりました。
しかし、いかに墮落し惡化しても心が靜まると、また烈しい良心の聲が身に迫つて來るのでした。それに、せつかく學問に心身を打ち込んだのも僅か半年たらずで、生活環境はがらりと一變しました。その新しい生活も、また長つづきせず、わたしの心は地獄の底に轉落してしまひました。惱みに堪へず、いつとはなしに、耶蘇の教會に足を運ぶやうになりました。はつきり意識した譯ではないが、『救ひ』を求めていつたのです。そして曾て經驗したことのない光明と元氣とを與へられたのが、本郷教會の海老名彈正先生の説教でありました。わたしは全我を傾けて海老名先生に沒頭しました。そして洗禮を受けました。それは東京法學院を卒業してから間もない時でした。
澄子さんとの間に愛の誓ひが交はされたのも、その當時でありました。同宿の友は暑中休暇で歸郷したので一人で二階にゐたわたしは、澄子さんと談らふ時間と自由とを心ゆくまで與へられました。しかし、過ちを再びしてはならない。敗殘の身、けがれた身ではあるが、心だけは淨らかにして、この戀は遂げなければならない。かう私は決心しました。わたしは天にも登るやうな嬉しさで眞に過去の惱みから救はれたことを感じました。
澄子さんは、或る時言ひました。高等官にでも辯護士にでもなられるやうに、試驗を受けて下さい。さうしないと親達にも話せないから。わたしは、そのことを快よく承諾しました。そして、大勇みで勉強にとりかかりました。學校になど稀にしか出たことのない私ではあるが、しかし自信だけは持つてゐたのです。法律なんていふものは人間の造つたもので、それに頭をつかふのは元來が低能者のすることと、きめてゐたのです。安心しきつて辯護士試驗を受けました。家に歸つて、問題とわたしの答案とを引き合はして見て、無論及第だらうと信じてゐました。ところが、何ぞ計らん、幾週間の後になつても何の通知も來ませんでした。それは何かの間違ひだらうと何時までも考へたのですが、遂にあきらめざるを得ませんでした。
次で司法官の試驗にも應ずる積りで願書を出したのですが、冷い牛乳にあてられて大腸カタルに罹り、幾日幾夜かを澄子さんの手厚い看護に浴した幸福には感謝したが、大切な試驗には行けませんでした。そして、かうして二つの試驗に失敗したことは、わたしにとつても、澄子さんにとつても、暗い不安の種になりました。澄子さんはやがて學校に歸り、わたしは獨立生活の道を樹てなくてはなりません。それは漸く惱み悶えの戀に變つて行くのでした。
しかし私は試驗についてはまだ失望しなかつたのです。試驗官の方で私の答案に落第したのだ、とかう考へてゐました。時のたつのは早いもので、間もなく翌年の試驗期になり、今度は高文の試驗に應じました。提出論文は及第の通知に接しましたが、次の筆記試驗はまた落第でした。この時わたしは既に[#「既に」は底本では「既は」]澄子さんの家から他に引越してゐました。澄子さんの姉さんにお婿さんができたので、室を明ける必要がで
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