きたのです。
 それから間もなく、私は堺利彦、花井卓藏兩先輩の紹介で萬朝報社に入社することになりました。明治三十五年初秋でありました。花井氏とは、わたしがまだ母のところにゐた十五六歳の頃から知り合ひになり、花井氏の長男節雄君が死去した時には私は香爐を持つて葬列に加はりました。堺氏と知り合ひになつたのは、同氏が福田氏の隣家に引越して來られたことが因縁になつたのです。堺氏の何かの文章を讃美したもの(何かの雜誌に掲載したもの)を福田氏に見せると『堺さんは家のお隣に越して來たの』といひ、すぐ堺氏を呼んで來てご馳走しながら紹介してくれました。兎に角、かうして私は萬朝報社の記者にさして貰ひました。そして最初のうちは社長黒岩周六氏の祕書を兼ねてゐました。
 堺氏は私を萬朝報記者にしてくれると同時に、私を試驗地獄から救つてくれました。私は學校を卒業するまで、あの樣な試驗を受けるつもりはなかつたのです、まつたく戀ゆゑに迷ひこんだ横道でありました。この試驗を思ひ切るといふことは何でもないが、そのために、天にも地にも、かけがへのない生命そのものである戀をも思ひ斷たねばならなくなるであらうといふ不安がありました。しかし『そんな馬鹿氣たことは止めたまへ』といふ堺氏の忠告には眞實がこもつてゐました。恐らく堺氏は福田氏から私の心の惱みを聞き知つたのかも知れません。堺氏の言葉に從つて私はその年の試驗のみならず、永遠にそれを斷念しました。しかし私の戀心はつのるばかりでした。先方は私が新聞記者になつたことに失望を感じたらしく學校を卒業して高等女學校の教諭になつたばかりで病臥する身となりました。私はそれを見舞ひたかつたのですが、澄子さんや母親の心持が、私を快く受け容れてくれるかどうかわからないので思ひ止まりました。唯澄子さんの弟を通して私の心を傳へるのみでありました。弟は常に私のところに出入してゐましたから。

     萬朝報時代

「辯護士だの、裁判官だのにならないで、あなたは助かりました。ほんたうに、人間として生きることができたのです。その意味でムッシュウ堺こそ、ほんたうにあなたの救主ですよ」
 マダムには、私の戀愛問題など問題ではない。それよりは生まれた子供こそ大切だと考へて、そのことを問ひ詰めて來る。子供は私の母が孫娘として愛育しましたと答へると
「ああ、さう! それで安心しました」
 といかにも喜ばしさうに破顏微笑するのであつた。そして
「それから基督教のあなたはどうなつたんです?」
 耶蘇教ぎらひのマダムはまた些か興奮するのだつた。

 わたしが萬朝報社に入つた時、同社の外廓團體として理想團といふものがありました。その中には若い辯護士達や新進の思想家などが加はつてゐましたが、何と言つても、その思想的支柱となつてゐた人は特異な信仰の持主として有名な内村鑑三氏其他二、三の萬朝報社員でありました。毎日新聞の木下尚江氏も有名なメンバーの一人でありました。屡※[#二の字点、1−2−22]理想團講演會が東京及び地方で開かれましたが、雄辯家木下氏の名は缺くことのできない看板でありました。私は社長の祕書であつた關係上、また理想團の事務も執らされました。諸方に飛んで講演會の準備工作の手傳もしました。この理想團で私は初めて公開演説をさせられて大みそをつけたことを記憶してゐます。それは四谷見附外の三河屋といふスキヤキ店の二階でした。私の前座が餘り長談議になつたので、聽衆はアクビする、私は結論に達すべく焦せるが、どうしても結びの言葉が出てこない。やつとのことで言葉を絶つて、樂屋に歸つた時は、汗びつしよりになつてゐました。
 この演説會が終つて、奧の室で黒岩社長以下牛肉のスキ燒の御馳走を食べてゐると、さきの會場には新たに多くの青年が車座になつて首を集めてゐました。それは漸く流行し始めた百人一首のカルタ會でありました。黒岩社長は、いたくその光景にうたれ、『これは面白い』の嘆聲を連發するのでありました。萬朝報がカルタ會の肝煎になつたのは、これから始まつたことであります。
 社の仕事に少し慣れた頃でした。私は社長の家に屡※[#二の字点、1−2−22]招かれました。それは黒岩社長が當時執筆中であつた『天人論』の原稿を整理淨寫する仕事の御手傳をするなどのためでありました。しかし社長は私には筆耕をさせずに何時も議論を吹つかけるのです。デカルトの『われ思ふ故にわれあり』から、カントの『實踐理性』論から、『至上命令』論に及び、議論はなかなか盡きませんでした。わたしはしばしば夜中の十二時を聞いてから車で送られて歸宿するのでありました。そんな時は、いつも角筈の福田氏の家に行くことを常としました。素人下宿の家に夜更けて歸ると厭な顏をされるので、つひさうなつたのであります。
 當時の青年は、多く哲學
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