して、その母と子とは福田氏に引き取られました。憐むべきその赤子は、私の郷里の兄夫婦の養育に委ねられることになり、やがて上京した兄夫婦に引き渡されました。
かうして難問題は一つかたづきました。けれども私の精神上のなやみは、深まるばかりでした。赤子は引き取つたが、その母を如何にすべきか。福田氏は私がその母と結婚することに賛成しない。私としては養家の娘に對する義理もある。こんな不しだらをしながら學資を貰つてゐることは一日も堪へられない。私は斷然決心をして養子縁組の解消を石川家の父親に懇願しました。しかし事情を打ち明ける譯に行かないので、唯だ私が石川家の恩顧を受ける資格なきこと、今までの御恩は決して忘れず、一人前の人間になつたら、必ず御恩報じをします、など言ひわけしたが、勿論先方では譯がわからなかつた。親戚の人々が來て私の心をなだめもしました。婚約の娘も來ていろいろと私の氣持を柔げることに努めました。それに對する私の心は悲痛のどん底にありました。私はその娘を熱愛するといふほどではなかつたが、しかし、いやではありませんでした。養母はその娘と私とを伴うて、よく諸方の盛り場に行きました。十六歳の少女であつた娘は、なまめかしい素振りなどいささかも示しませんでした。その少女が、この問題に會つてからは、すつかり大人らしくなつて私のところに訪れるやうになり、それが私には殊に痛ましく感じられました。わたしは一そ自分の失敗をうち明けようかとも思ひました。しかし氣の弱い、僞善のわたしには、それをどうしても決行し得なかつたのです。
それに私は所謂『實業家』のやうな生活が私の本性に合はないことを氣づき始めました。わたしは矢張り貧困の中で勉強した方が、自分の本分であるやうに感じ始めました。しかしたとへ一年間でも父と呼び母と呼んだ養父母に對しては、何と言ひ譯することもできない理由で、縁組解消を請ふのは、何としても、つらいことでした。それはほんたうに泣き別れでありました。
そこで一方にかうした離別を強行した私は、他方の娘に對しても甘い考へを持つ譯に行きませんでした。わたしはここで一切の過去から斷ち離されて、眞に新しい生活に入らねばならぬと考へました。しかし、それは理性で靜かに考へる時の心のさまであつて、物に觸れ、ことに感じては、身も心も狂ひなやまざるを得ませんでした。かうして私が狂ふさまを見ては、母になつた彼の女も些か私の行動にあきれた樣子でありました。そして突然福田家から姿を消してしまひました。彼女に對する愛情が私にないものと感じたのかも知れません。それも彼女としては無理ではなかつたのです。私が心身を狂はした眞情を察することは、彼女にとつては不可能であつたのです。
一波は萬波を呼ぶ。一つの波が消え靜まつたと思ふと、そのあとは幾つもの波が起つてゐました。犯した罪から免がれようとする私はそのために悶え狂つて、どこにでも慰安を求めようとする。急の夕立に追ひまくられて、どんな木蔭、どんな軒端をも頼みにして驅けるやうに、少しでもやさしい異性を見ると、すぐにそれに近づくやうになりました。
『男らしく一本立ちになつて、勉強しなさい』と元氣づけてくれるのは福田未亡人でありました。從つて福田氏は私が養子縁組みを解消することには賛成でした。ところで縁組を解消する以上は、その親戚である今までの下宿に居るわけに行かない。私は學校に近い猿樂町の下宿屋に轉居しました。しかし、そこにも長くは居れませんでした。生活費が餘りに高まるからです。私は一人の友人と相談して普通の家庭の一間の二階に同宿することになりました。生活費は今までの下宿屋の半分で足りるので、學校を卒業するまでの視透しも出來るやうになりました。
その家は飯田町の中阪に近いところでありました。老母と二人娘と末の男の子と四人の家庭でありました。その家の次女は高等師範の生徒なので日曜日毎に家に歸るだけでありました。從つて平生は近所の小學校教師の長女と、中學生の息子と、その母親との三人暮しでありました。父親はどういふ事情か二ヶ月に一度ぐらゐしか姿を見せませんでした。横濱に住んでゐたやうでした。この家に移つてからは、粕谷義三氏から毎月十圓づつ送つてくれるやうになり、不足は親戚や友人から補充されることになつたので、私は安心して勉強し得るやうになりました。
ある時法學院に全校學生の討論會が催されました。この學校へは餘り顏を出さない私ではあるが、いささか討論に興味をそそられてそれに參加しました。勿論優勝など豫期した譯ではなかつたが、原嘉道、馬場愿治兩氏の審判で、不思議にも二等賞が授けられました。大いばりで歸宅して、宿の老母にそれを見せると、お婆さんは、わがことのやうに喜んでくれました。その當時南洋から歸つた佐藤虎次郎氏や粕谷義三氏の手紙
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