ほしいといふことになりました。その家には男女の子供が澤山あるのですが、主人が年老いてゐるので子供達の助力者になつてほしいといふのでありました。殊にその姓が僕と同じの石川氏であるから、法律上には長女を娶つてくれればよいといふのです。僕が餘りに貧しい生活をしてゐて、しかも一心に勉強するのに同情してくれたのでせう。それは從弟を通しての申し入れであつたので、私は郷里の母や兄に意見を問うてやると、兩方とも、應諾せよ、といふ答へでありました。
わたしの生活と生活氣分とは、かうして俄かに變りました。養父は幾つかの鑛山を持つて居り、上野公園にパノラマを經營し、銀行の創立をも計畫してゐました。鑛石見本を携へて横濱に行き、西洋人に賣り込むべく奔走したり、試掘權維持のために仙臺方面に飛んで行つたり、銀行創立の一委員となつて福田友作氏の出資(一萬圓)を獲得したり、學生の身である私の生活としては餘りに横道にそれて行きました。教場で鼻血を出すまで英語の勉強に熱中した昨日までの生活を顧みると自分ながら驚かされるほどでありました。しかし、金さへ儲かれば、すぐに洋行ができるといふ希望が與へられたので私はその生活に滿足でありました。
ところが思はぬ方面から魔の手は伸びてきました。飯田町に大きな家を構へてゐた福田氏は俄かに居を轉じて郊外の角筈にささやかな家に住むことになりました。銀行家として生活するには愼ましい態度こそ必要だと考へたのかも知れません。所用で福田家を訪問すると、時には歸りの汽車が無くなることもありました。その頃の角筈は一面が野原であり、新宿驛も淋しい小さな一軒家でありました。そして汽車が無くなれば泊るよりほかに致し方がない。それに遙々訪れると福田氏は必ずお酒を出して御馳走するのです。わたしは餘り飮めないので、いはば福田氏のお酒の肴にされるやうなものでありました。けれども福田氏はわたしを歸さない、無理に引留められるのは可いが、夏の夜は蚊帳の中に寢なければならない。魔の影はこの蚊帳の中にひそんでゐました。福田夫妻は奧の間に寢て、酒に醉うた私は若い娘と四疊半の小さな室に一つ蚊帳の中に寢せられました。その時私は二十三歳、娘は十九の若ざかり、婚約の人がアメリカに行つてゐるので、暫し福田家に托された人。夏の夜の短い夢ではあつたが、若ものたちの青春の血は漲り注いで醍醐の海を湛へるのでありました。
最初は已を得ず泊めてもらつたのですが、それからは、こちらから泊めてもらふやうに時間を見計つて行くこともありました。この間に福田家に一凶事が起りました。それは福田氏が突然發狂したことであります。醫師の診斷では腦梅毒の結果で不治の病氣だといふ。新立銀行に出資された一萬圓の金も返し、看護のお手傳ひに頻々と福田家に行くやうになりました。かうした不幸を見るにつけて私の感情も冷靜な反省を呼ぶやうになりました。しかし氣の毒な娘は益※[#二の字点、1−2−22]熱中してゆく樣子でありました。福田家には病人の看護やなにかで男手の必要を感じ、屈強の若い男子を手傳ひに頼みました。私はその若者にいささかのしつとを感じました。その内に娘は祕かに身おもになつたことを告げるのであつたが、私は自身のしつと心に打ちまけて、それは私の責任ではあるまい、と反ばくさへしました。さうした時には娘はくやし涙にくれるのでありました。
福田氏は遂に逝去しました。その混雜があると同時に娘は何れへか姿を隱しました。福田未亡人は、きつとあの若者のさしづだと私に告げるのでありました。私は何とも答へやうがありませんでした。ところがそれから幾週間かたつた時、私の下宿に私の留守中に未知の來訪者があり、近所の某所に待つてゐるから來てくれと言ひおいた、すぐに行つて見ると、それは向島の業平町の木賃宿の主人で、娘の依頼でやつて來たのです。もう産月に近いのだといふことを聞いて私は今さらながら驚天しました。明日を約してその男を歸し、直ちに行李の中から眼ぼしい衣類全部を包み出して質屋に飛び、三四十圓の金をこしらへました。そして兎も角も翌早朝、向島まで車を飛ばし、お腹の大きい娘に會つて一時しのぎにと約束の金を渡しました。喜び涙ぐむ娘に暫しの辛棒を説いて私は一まづそこを辭し去りました。
若き日の苦惱
福田未亡人から聞いた若者への疑ひが晴れた譯ではないが、娘が私に訴へる以上は私に責任があります。どうしてこの娘を助けたらよいか。名義だけにしろ他家に養子になつた身で既に婚約の娘もある自分であれば、自由の行動もできません。思案に餘つて、それを福田未亡人に打ち明けました。福田未亡人は私の打ち明けたことを非常に喜んで、すぐに知人の慈惠大學講師に事情を告げて、慈惠病院に入れてくれました。そして間もなく安らかに分娩することができました。數日に
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