した貧しい中にも、景山女史が大切に持つてゐた軸物がありました。それは朝鮮の革命志士金玉均が特に女史のために詠じた詩を絹地に書いた見ごとな懸物でした。景山氏福田夫人は『ぐづぐづしてゐれば、こんな物もいづれは無くなるであらうから』と、わたしの父に感謝の意をこめて寄贈してしまひました。父はまたその時の景山氏の手翰を額にして奧座敷に飾つて置いたほどそれを喜んで居りました。
どういふ意味で私は福田家を去つて故郷に歸つたのか、その時の事情を忘れてしまひましたが、一家を維持することが困難になつたことが主要な原因であつたと思ひます。赤子を負うて栃木縣の郷家に歸つてゐた福田氏の居を訪問したのがその時の別れになつたことを思へば、福田氏夫婦は既に郷家に入ることになつたのかも知れません。兎に角、かうして私も故郷に歸り間もなく友人の紹介によつて上州榛名山麓の室田村といふ所で小學校代用教員になりました。この小學校教員の職は私に眞の生きがひを感じさせました。自分の心がすぐに兒童に反映します。兒童は自分の鏡の如くです。世に教師殊に小學校教師ほど生き甲斐のある生活が他にあらうかと私は感じました。私は眞に感激の中で一ヶ年を過ごしました。殊に村童達と野に行き山に遊ぶ時などは天國を感じさせられました。ワラビとりに相馬山に登つて一望千里の關東平野をながめた時の感興は、今も忘れられません。はるかに霞をへだてて銀の線の如く見えるのは、わが幼ななじみの利根川ではないか、すべては夢の國に遊ぶごとく感じさせられるのでありました。然るにその私が赤痢病になつて歸郷し、私の病氣が父に感染して父は死去しました。私は再び小學校教員に戻り、しばらくその職を續けましたが、何とかして確乎たる職位を持たなくては永久性のある生活に就けないと感じました。二年ほど代用教員を勤めてゐる間に教育といふものに興味を感じたためでしたが、中等教員の檢定試驗を受けて見る氣になり、一度これを試みましたが、全然失敗に終りました。それは明治三十年のことであつたと思ひます。中等教員の試驗は科目が少なく自分で選擇ができるのでその方を試みることになつたのです。この失敗に反撥して、再び苦學生活を試みるべく上京を決心したのであります。丁度これと時を同じくして例の福田氏が上京して新たに一家をかまへるに至りました。そしてわたしにもう一度上京せよと促すのでありました。そこで私は、暫時福田氏のところにゐて、友人、先輩、親戚等に頼んで、毎月少々づつ學資を貰ふことを約束するに成功しました。後には粕谷義三氏からも毎月送金してくれるやうになりました。そして當時上京してゐた從弟の下宿に同居することになりました。かうして私は明治三十一年に今の中央大學の前身東京法學院に入學し、三十四年に卒業するまで、極貧ながら專心勉強することができました。法律の研究など素より好んだ譯ではないですが、學資の補給を得るには、これが最上の手段であつたのです。私の本心は英語や哲學に傾いてゐたので、法律學校の講師の中には遂に一度も顏を見ずに過ぎ去つた人がある位でした。それでも卒業の時には可なりの成績であつたのは不思議なほどでした。
生涯の轉機
明治三十一年から三十四年までの私の生活は、私の一生涯の運命を決すべき樣々な激浪と渦卷とに飜弄されてゐた。それから學校を卒業して萬朝報記者となり、次で平民社の一員となつてからも、私の精神生活は決して明朗でなく、常に不安と焦燥に驅られてゐたが、しかし、それは學生時代に受けた衝撃の餘波に過ぎなかつた。
自分の古い傷をいま再びさらけ出すのは不愉快極まるが、その時代の自分を語るには、どうしても、それをぬきにする譯にはゆかない。いやなことでも意地になつて語らねばならない。私はすべてをマダムに打ち明けて物語つた。
明治三十一年の九月に今の中央大學の前身である東京法學院に入學し、それと同時に築地の立教學校の分校である英語專修學校(神田錦町)といふのに入學して自分のおくれてゐた英語の力を急増することに努めました。素より充分の學資がないので從弟の下宿(飯田町)に同居して、私は朝から晩まで英語學校と圖書館とに暮しました。從弟の室が三疊で、そこに机を二つ並べ、本箱を置いてあるのだから、言はば、そこらの警察の留置所にゐるやうなものでありました。その下宿も所謂素人下宿といふ奴で、水戸の藩士の未亡人と老孃との三人のお婆さんが細ぼそと營んでゐたのでありました。
明治三十二年のお正月元日に、われわれはこの下宿の親戚の家に當時流行のカルタ會に招かれて行きました。それは本郷の新花町といふ粹なところでありました。みんな興に乘じて夜の更けるのを忘れ、たうとう翌朝の初荷の聲を聞きながら飯田町の下宿に歸りました。ところが、これが縁になつてその家で私を養子に
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