つた購入書が火鉢の引出にあることに氣づいた母は、何とかして處分したいと思つたが、刑事が眼前にゐるので如何ともすることが出きず、隙を見て口に入れて飮下しようとしたがうまく行かず、遂に煮たつてゐた鐵びんの中に投じて發見を免れたといふ悲喜劇もありました。この事件で次兄と學友二人と親類のもの一人とは無罪になりましたが、長兄と下手者とは一ヶ年と三ヶ年との刑を被るに至りました。どの被告も口を割らないので未決が一年半もかかりました。次兄も初審で一年の禁錮を宣告されたが、再審で江木衷氏の辯護によつて無罪になつたのです。それは明治二十六年六月頃のことです。
 このやうな事件に遭遇する度ごとに、私は、叛逆的行動に興味をそそられるやうになりました。兩兄が出獄し、次兄が法學院を卒業して母とともに歸郷したので、私は同じ家にゐた先輩の世話になることになつたが、間もなくその先輩に叛逆して、その家を飛び出し再びさきの福田友作氏の家に寄食することになりました。その時、福田氏は先妻と離別して、大阪國事犯のヒロイン景山英子氏と結婚して既に男の子を儲けてゐました。

     變轉の若き日

 三男に生まれた上、生まれ出ると間もなく形式ながら他家の養子にされた私は、いはば一家の餘分ものでした。況んや、家道の傾いた父から學資を送つて貰ふことはできませんでした。從つて周圍に起つてくるめまぐるしい變轉の浪に伴つて、わたしの生活も浮動するのでした。いろいろと自活の道を見出させようとして父は私に内職の仕事などを探させましたがうまく行きませんでした。その間においても、私は時間の都合を計らつて、國語や漢文や數學や英語などを一通り勉強しました。もちろん不規則な勉強ですから上達しませんでした。いま私の印象に殘つてゐる當時の修業の中では、帝國教育會(辻新次氏會長)内文學會における根本通明老師の論語や詩經の講義、畠山健氏の枕の草子の講義や立花銑三郎氏と元良勇次郎氏の倫理學などが、最も多くの影響をわたしの心に遺してくれました。二三ヶ月通學した山本芳翠畫塾の思ひ出も、出京後最初の勉強であつたことを理由として、深い懷しさの對象になつてゐます。先輩塾生中には湯淺一郎、白瀧幾之助、大内青也(?)などといふ、日本の洋畫界では最も古い人々がをりました。しかし環境の變るに隨つて、私の修業も變りました。交通の便もなし、自修の資材を缺いた當時では、自分の思ふやうには行きませんでした。國語傳習所といふところで、落合直文や、小中村義象や、關根正直やの講義を聞いたり、右の文學會でいささか哲學じみた講義を聞いて、私の心持はその方向に傾き、今の東洋大學の前身である哲學館に入學しました。しかし在學僅か一ヶ年餘りにして、私は殘念ながら郷里に歸らねばならなくなりました。それは再び寄食した福田家の生活が非常な困窮状態に陷つたためでありました。
 福田氏は栃木縣の可なりの資産家で、その家の長男である友作氏が、ささやかな家庭を維持する經費ぐらゐは、問題にもならぬほど些細なことであつたに相違ありません。ところが兩親の氣に入りの嫁を出して、景山英子といふ變り種と同棲するに至つた友作氏の行動は、當時としてはまさに兩親への叛逆でありました。殊に家付の娘であつた母親が許しませんでした。勿論、自由行動を採つた友作氏は自主生活を營むべきは當然でありました。ところが金持の息子さんの悲しさで、貧乏骨ずゐに達しながらも、最後には生家の方からどうにかしてくれるものといふ依頼心が無意識に潜んでゐたのでありませう。ただ不平不滿でその日その日を送るといふ有樣でした。明治二十七年(一八九四年)の大晦日にはお正月の餅を近所の餅屋に注文したが、その餅代が調達できないで、折角持つて來られた餅をまた持ち歸られました。ところが、その大晦日の夜、わたしの父が、わたしに新調の手織木綿の羽織と小倉のハカマとを持つて來てくれました。わたしは折を見て父に福田家の窮状を話すと、父はそつと懷から五十圓とり出して、御用にたてばよいが、と申しました。福田氏夫妻のよろこびはもちろん言語に絶するほどでした。そして父が歸ると、すぐにお正月の酒と餅とが買ひこまれました。
 この五十圓の金は米一升十錢の當時としては可なりの助力になりながら、しかし燒石に水であつたことは當然でありました。わたしの新調の羽織と袴も、永らくは手許に留まらず、質屋の繩に縛られて、お倉の奧に幽囚せられました。夏になつても蚊帳がなく、知人の紹介で、損料で二はりの蚊帳を借り、家への途中、一はりを質に入れてお米を買つて歸つたこともあります。牛込天神町の福田家から下谷黒門町の知人のところに行き、借り受けをし、神田表神保町の質屋に廻つて歸るのですから、大へんです。電車もバスも無し、人力車に乘るのも惜し、大ていは徒歩のお使ひです。かう
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