務所長は猛火と動亂との包圍に會つて死去したこと、遂に高崎連隊が鎭壓のために出動し戒嚴令がしかれたこと、などが大々的に都下諸新聞に報ぜられました。七日には、平民新聞社と堺、幸徳、西川、石川、竹内等五人の家々に、一齊搜索が行はれました。同じ日に、平民新聞紙上には足尾鑛山勞働者至誠會の南助松、永岡鶴松その他五、六名の幹部が平民紙を抱へ、大旗を樹て整列せる寫眞を掲載しました。同じ日に、衆議院では、武藤金吉が大竹貫一他三十名の賛成を以て政府に詰問しました。
[#ここから1字下げ]
「……大暴動は鑛業主と勞働者との間に起りたる一椿事に過ぎずといへども、而も交通を遮斷し、電話、電燈、電信の電線を切斷し、道路、橋梁、鐵道、家屋建物を破壞燒失し、終に多數の人命を傷ふに至らしめ、數百の警察官を以つて鎭撫する能はず、なほ高崎連隊より出兵するに至りたるは、政府當局者の無責任にあらずや云々」
[#ここで字下げ終わり]
 この時、西川君は既に現地で拘引されて了ひました。

     平民廢刊まで

 西川君が拘引されたといふ報に接して、すぐにその仕事を續ける人を送らねばならぬことになりました。選ばれたのは編集局の最年少者、荒畑勝三(寒村)君でした。しかし荒畑君が足尾に着くと間もなく暴動は鎭まつたと思ひます。
 足尾の暴動は鎭まつたが、政府の暴動は鎭まらず、平民新聞の上に矢つぎ早やに、火矢を放射し始めました。わたしは編集局の番頭さんにされ、かつ、發行兼編集の名義人にもなつたので、僅か三ヶ月の間に四つの事件の被告人になりました。そして最後に發行禁止の宣告となつたのです。
 この間に社會黨内に議會政策と直接行動との是非の議論がやかましくなり、わるくすると、分裂にまで押し進みはせぬかと危ぶまれるほどでありましたが、まるめることの上手な堺が在り、堺と幸徳との厚い友交の關係もあり、その危機は逸しました。しかし、大會の決議と、その時の幸徳の演説とを載せた平民新聞は告發され、同時に發賣を禁止され、社會黨そのものも禁止されました。わたしも何とかして分裂を避けたいといふ念願から、社會黨員に對する私見をも平民紙上に掲げ、大會當日になつて入黨までしました。大會の決議は折衷的な評議員案が成立して無事終了しましたが、黨そのものが禁止されたので、いささかとびに油揚をさらはれた形になりました。皮肉なことに政黨ぎらひな私が大會
前へ 次へ
全64ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 三四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング