等の諸君が入りました。そして京橋區新富町の有名な劇場、新富座の隣りの可なり大きな家に陣どりました。新富座は昔は最も有名な劇場であり、千兩役者ばかり出場する格式の高い芝居小屋でありました。
この日刊平民の創立は可なりのセンセーションを日本の社會と政府とに起しました。西洋諸國の社會主義者間にもまた少からぬ感動を與へたらしく、諸國の革命家の來訪に接しました。就中ロシヤの革命家ゲルショニといふ巨大な體躯の持主の出現は平民社中に深い印象を與へました。『新紀元』時代にもロシヤの亡命者ピルスツスキイが現はれて、幾度か會食などしたが、今度のゲルショニはさういふことは致しませんでした。ゲルショニは本國の牢獄を脱して來たらしく、餘り落ちついてはゐられなかつたのでありませう。明白な記憶はないが、ブハーリンなども來訪したのではなかつたかと思ひます。印刷機械まで据ゑつけて日刊紙を刷りはじめたのですから、政府の方でも少々眼を見はつたやうでありました。
この新聞紙上で幸徳は始めから自分の『思想の變化』を發表して、公然無政府主義的主張を宣言しました。それは創刊號から間もない十五、六號の頃で普通選擧制、議會政策を無益な運動となし、勞働者の團結訓練と直接行動とを主張するのでありました。この主張も可なりの衝激を世間一般に與へ、また社會主義者間にも議論を沸騰せしめました。新紀元にも平民新聞にも有力な援助者となつた田添鐵二君は議會政策論者として、正面から幸徳に對立しました。
幸徳が直接行動論を宣言したのと時を同じくして、足尾銅山の鑛夫達の暴動が勃發しました、たしか二月四日の夕方でした。平民社經營上の相談のために、幸徳、堺、西川三君と私とで、近所の鳥屋に晩餐を喫してゐると、新聞の號外賣りがチリチリ鈴を鳴らして來る。足尾の暴動が益※[#二の字点、1−2−22]激化して來たといふ報道でありました。これはこのまま棄ておく譯には行かないといふことになり、さしづめ西川君が急行して樣子を見たり、通信を書いたり、對策の施すべきことがあれば、適當の處置を講ずる、といふことになり、その夜すぐ出發と決定しました。晩餐もそこそこに濟ませて西川君は先づ家に走り、私は號外を持つて平民社に歸り既に大組を終つて印刷にとりかからうとする工場に行つて、二號活字の大見出しで、暴動記事を付加へました。六日には暴動のますます猛烈なこと、鑛山事
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