響を日本に與へたらうか」
「さあ、僕は十五歳の少年であつたから何も分らなかつたが、それから間もなく、國會議事堂に爆彈を持ちこんだものがあつたとか色々物騷な噂が傳へられた」
「議會に爆彈が?」
 翁は益※[#二の字点、1−2−22]驚いたやうであつた。ヴィヤン青年がフランス國會に、而も議事進行中に爆彈を投じたのは一八九三年で、その教唆者と見なされて重懲役二十年の刑を受けて現に祖國亡命中の翁が驚くのも尤もな次第だ。もちろん翁は自分の重大事件などを口にはしなかつた。私はただ當時の翁の態度を思ひ出して、今、自ら合點するのである。マダムもいささか激動の樣子であつたが、やがて冷靜に返つていふ。
「そこで、あなたは無政府主義者になつたといふ譯ですか?」

 いえ、いえ、わたしが無政府的社會主義者になつたのは、それから十數年を經過した後のことでそれまでには、生活の上にも、思想の上にも、樣々な變遷があり、浮き沈みがありました。この弱小な生命の上には容赦なく浮世の荒浪が襲ひかかつて來たので、今その過去をふり返つて見て、自分ながら、よくもこれまで、自分を保つて來たものだと驚くばかりです。
 私の父は次兄を東京に遊學させるために、母をも共に上京させ同郷の青年學徒達の食事の世話をさせましたが、漸く東京の生活に慣れた母は、下宿屋の看板を出して、より多くの人を止宿させるやうになりました。そこへ下宿したのが同郷の新歸朝者茂木虎次郎、橋本義三の兩氏で、この兩氏がやがて一戸を持つことになつたので私はその家に招かれたのです。その時、茂木氏等は土佐の板垣門下の人々と『自由新聞』といふのを創刊して人民自由のために大いに活躍し始めたのです。最初の衆議院議長中島信行といふ人を始め、江口三省、直原守次郎などいふ急進的自由主義者が屡※[#二の字点、1−2−22]來訪し、後には信州飯田事件の首謀者櫻井平吉氏も同居者となり、ほとんど毎晩、社會問題の議論が沸騰しました。江口氏は自由黨の綱領中に勞働者解放の一項を加へんことを主張して容れられず、遂に自由黨を脱退した人なのです。また自由新聞の方も、橋本(粕谷)茂木(佐藤)等と板垣派とは意見が合はず遂に腕力沙汰に及んで茂木氏はしたたか襲撃せられました。私は呼ばれて茂木氏の避難所を見舞ひましたが、それはこんぱる(金春)の藝者屋か或は待合であつたと思はれ、美しい姉さん達が幾人も付き
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