添つてゐました。私が室に入ると茂木氏は寢臺から起きあがり、家は無事ぢやつたか己れはこんなにやられた、と、ずたずたに引裂かれたフロックや切られた時計の金鎖などを示すのでありました。私は社會主義のことなどは能くわからないが、かうした鬪爭には頗る引きつけられ、茂木(佐藤)氏はこの世の一番偉大な英雄であるやうに感じました。
 ところが、かうして自由新聞はめちやくちやになり、茂木氏は中島信行夫人(有名な湘烟女史)の媒介で紀州の素封家佐藤長右衞門氏の女婿となり、橋本氏は同郷の粕谷家に入婿となりました。一家離散と決定して淋しき未來が待ちまうける如く見えた私は、同じ米國歸りの福田友作氏に引き渡されることになりました。福田氏は中村敬宇先生の同人社に教鞭を執ると同時に、社會運動などにも關係してゐました。福田氏の住居は新婚の家庭であつた筈ですが、新夫人は留守がちで私と他の一青年とはいつも同人社の食堂で食事をすませました。それから間もなく同人社社長中村敬宇先生は死去し、同人社は閉鎖され、福田氏はその家をもたたむことになり、私は母の許に歸りました。
 丁度その時、勃發したのが埼玉硫酸事件といふ地方の政爭で、私の兄二人親戚など二人と、兄の學友二人と、都合六人が刑事被告人となつて鍛冶橋監獄に投じられました。私の一家は自由黨であつて縣政上の改進黨と爭ひ、最後の手段として政敵を上野、王子間を進行中の汽車の中で襲ひ、これに硫酸を浴びせて、下手者は車窓から飛び下りたのです。すべての計畫は私の次兄が發案したことで、彼はまだ十九歳の青年で、今の中央大學の前身、東京法學院の學生でありました。兄の命令で私も一度はその硫酸を買ひ求めに遣られましたが、子供の故を以て、藥屋は賣つてくれませんでした。そして、こんどは長兄が出かけて遂に一罎の毒藥を入手することが出來ました。いよいよ決行の前夜、五人の同志は最後の晩餐といふべき酒宴を張りましたが、その時の光景は悲痛を極めた眞劍なものでありました。下手者に選ばれた男は自ら進んで其任に當つたのですが、さすがに涙ぐんだりして、私の兄に叱られた樣など、今も眼に見るやうに思ひ出されます。決行の列車が王子驛に着くと直ぐに警察官が出張し、間もなく兄達四人の同志は捕獲され、下手者もその日の内に捕へられました。その三日目頃、家宅搜さが來て、家中を掻き亂しました。私が硫酸を買ひに行つて無駄にな
前へ 次へ
全64ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 三四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング