どもは一言もなく沈默を守るより他に仕方がありませんでした。
 私が初めて東京に出たのは、十五歳の時でした。その時一番に驚いたのは人間の多いことでしたが、次に驚かされたのは東京灣の海面の廣大なことでした。自然界に對する知識がこのやうにあはれにも貧しかつたのは、全く當時の教育法の缺かんであつたと思ひますが、人間界のことについては可なり進んだ知識を與へられたやうに考へます。
 私の父は子供達の教育には並々ならぬ注意を拂つたらしく、常に家庭教師を招いて兄達の勉強を助けました。養蠶期或は暑夏期に小學校が數週間休校の時には特に學校の先生方を聘して、私達兄弟と村童達のために特殊學校を開いてくれました。父は何かの用事があつて屡※[#二の字点、1−2−22]東京・横濱に行きましたが、置時計を買つて來て村人を驚かしたことが私の幼年のころの思ひ出にのこつてゐます。父はその頃から洋服をきることがありました。明治十八年(一八八五年)の頃だと思ひます。初めて利根川に船橋が架設せられ、本庄町(埼玉)と伊勢崎町(群馬)との街道が直通し、縣知事や郡長が馬車で巡視した時架橋者總代たる父は例の洋服で案内役をしたことを今も幽かに覺えてゐます。云はばハイカラの田舍紳士であつた父は自由民權論の急先鋒板垣退助の讃美者で、板垣の大きな肖像などが家に飾つてありました。それは私どもの小學校の先生で後には地方の政治運動の大先輩になつた持田直といふ人が自由黨であつたためかも知れません。福澤諭吉の『學問のすすめ』なども次々に取り寄せて兄に讀ませ聞くのを父は非常に樂しみにしてゐたやうです。
 私が十五歳の時、私を東京に呼んでくれたのは、郷里の先輩、茂木虎次郎(後に佐藤となる)といふ米國法學士の新歸朝者で、私の家に來てくれて、直接私に出京を促すので私はうれしくて飛びたつばかりでした。明治廿三年(一八九〇年)右の茂木氏とその同窓の橋本義三氏(後の粕谷氏、衆議院議長)との共同家庭の玄關番になつたのは、それから間もないことでありました。そこで初めて社會主義の話を聞き、佐藤氏がアメリカで見聞したシカゴ無政府主義者の大ストライキの物語などを聞いて私は少年の血を湧かしました。

     叛逆への興味

 ルクリュ翁は興味をそそられて長椅子から起き上り
「一八九〇年に早くもシカゴ・アナキストの話を聞いたとは驚いたが、當時あの事件がどんな影
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