ばアイヌは白皙人種である。瞳の青いのも北歐人に似てゐる。このアイヌ種は日本の全部に先住し、或は沖繩までも足跡を延ばしてゐるらしく、日本の人種的基本は實にアイヌ種であるかも知れない。
こんな話の時はマダムは寧ろ傍聽者であるが、しかし、言語を差しはさんで來る。
「エゾの名づけた利根川の岸邊に成長したエゾの五十嵐の家の子が今は西ヨーロッパまで來てゐる譯ですが、北歐のフィン人も東歐のハンガリア人もアイヌ人に近い血族ではありませんか。民族移動の波は、社會變遷の浪と互に錯節して樣々の歴史がくり擴げられましたのね。石川さんの歴史の浪をもつと話して下さい」
くはしいことは御退屈さまですから省きますが、原始社會の開拓生活の樣が記録にのこつてゐますから、それを參考に供しよう。それは『本庄村開發舊記』と題する原稿で四、五葉のものですが、仲々に興味があります。この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂村に移轉して來たものです。兒玉黨といふ武人の團體は日本の歴史上に有名な存在ですが、われわれの祖先もその一味であつたのでせう。當時兄弟二人と二三の親類とで移住して來たらしく、その兄を五十嵐大膳長國といひ、弟は同苗九十九完道と稱し、田畑を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。
ところが、この間に日本の政治組織と社會生活とに一大變化が齎されました。即ち、足利氏が倒れ、戰國時代が去つて徳川氏の統一事業が完成せられたことこれであります。そして全國各地の大小名は徳川氏への
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