歸順を證明するために年々參勤交代することになりました。この參勤の通路として本庄驛を通過する中仙道は重要な役割を持つことになりました。新田氏譜代の面々は徳川家康の旗下に列した者も多かつたが、吾々の祖先達は『最早年久しく業家にありて世の治亂にかかはらず、安樂に住すること此上の望み御座無く候儘恐れながら御斷申上候』と云つて、いづれも世の榮華を顧みず百姓になりすましたのです。そして慶長十七年には、五十嵐大膳は百姓太郎右衞門となつてゐました。
本庄村の同僚達の村高や屋敷の廣さが銘々に詳記され、また文書の署名の肩書にまで明記されてあるのは家の格式を物語るものか? それによると五十嵐太郎右衞門は本庄村最大の地主物持でありました。
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一、五十嵐太郎右衞門屋敷、堅(表間に)は六十五間五尺、裏行三十間、田畑山林共水越石とも持高百七十五石所持有之候得共、江戸表年々日増しに御繁昌に相成、京都宮樣方初め大阪表並に諸國御大名、御旗本方、寺院方、御參勤御荷物繼ぎ送り往還通り宿に相定り宿場通り家々間口に應じ日々御傳馬役相掛り、右者(五十嵐のこと――筆者)表口多分に所持致し、難儀致居候云々
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と『本庄村開發舊記』にあり、課役、經費が年々かかるので到底堪へられなくなつたのであります。
勇躍、東京へ
マダムは言葉を差はさんで言ふ。
「政治的生活の興亡盛衰の波に眼もくれずに、永遠の土の生活に誇りを持たれた、イガラシの祖先は賢くも善き模範を子孫に示したものではありませんか」
ところが、本庄村の五十嵐太郎右衞門は、何しろ同僚中で一番廣く間口を擴げたので、課役經費は年々嵩むばかり、その上何代か續く間に段々虚榮心も高まり、自然におごりの生活に慣れるやうになつたでありませう。遂に家門を維持することができなくなり、屋敷の一部分を或は鎭守に、或は威徳院といふ寺に分讓し、更に『間口八間を譜代召遣ひ候五助に居屋敷として遣し候、相殘り候は諸方より來り候者共方へ三間々口づつ相讓り、その身渡世も致さず寶永十九年迄に田畑山林屋敷まで不殘賣拂ひ、譜代召遣ひ候家來五助方へ夫婦引取り承應三年まで扶助致し置き、兩人共病死致退轉候』(開發舊記)といふことになりました。
此地に引移つた永祿三年(一五六〇年)から沒落の承應三年(一六五四年)までは百年近くなるが、その間に三代
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