である」
こんな要領の答をすると、檢事は一通の手紙を出してわたしに示すのでした。それは木下尚江が赤羽巖穴に送つたもので、わたしの留守中に赤羽が預けて置いた行李の中から見出されたものでありました。その手紙の要旨は
「先日石川が來て、今度入獄すれば病中の自分は必ず獄死するであらう。もし死んだら遺骸を引き取つて、二重橋外に晒してくれ、と言つてゐた。しかし僕はそのやうなことはしないで、普通に葬つてやるつもりだ」
といふやうなものでありました、そして檢事は
「皇室に對して激しい敵意を持つてゐるやうであるがどうか」
と、つめ寄つてくるのでありました。わたしはハッと驚きました。何しろ大逆事件の際であるし、また幸徳の家には屡※[#二の字点、1−2−22]出入してゐたので、事件に卷きこまれはせぬかと恐れたのです。
「何しろ天皇の名において刑の宣告が言ひわたされるのだから、わたしが木下にそのやうなことを計つたとすれば、それは自然の感情の發露でありませう」
とわたしは答へました、そして更に加へました。
「昨日わたしのところで押收なされた『虚無の靈光』の中に、マルクス主義や無政府主義についてのわたしの意見が書いてあるから、それを讀んでいただきたい」
この小書の中に次のやうなことが書いてありました。
「マルクスの歴史主義革命論も、クロポトキンの理想主義的革命論も、ともに自由解放の運動としては一種の空想である。歴史過程に沿うて強權を以て社會政策を行つても解放にはならない。また單に暴力革命によつて自由平等の理想社會を打開しようとしても、それは不可能だ」
こんな文句のあるページを開いて檢事に示すと、彼は納得したらしく、訊問を止めて世間話にうつり
「昨夜から御苦勞でした。何かお辨當を取るから喰べて下さい」
と、それにて放免になつたらしい。お辨當など喰べずに早く歸らうとも思つたが、晝食時を少し過ぎたので出された『うなどん』を食うて、心も落ちついて歸途につきました。前夜もその朝も『天どん』の御馳走であつたが、心がおちつかないので、あまりうまくなかつたが、最後の『うなどん』ですつかり元氣になりました。
歸宅すると皆が非常によろこんでくれました。都下の新聞などもわたしの拘引を書きたてたほどですから、友人達も少し心配になつたのでせう。當時すでに千葉から歸つてゐた堺ははがきをよこして、見舞に行き
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