たいと思ふが、こんな際だからおとなしく引つこんでゐると書いてきました。アメリカの新聞は幸徳の事件に連座するものとして、わたしの拘引を報じ、福田氏の寫眞まで掲げて記事をにぎはせました。それは平民社時代に日本に來てゐたフライシュマンといふ男が書いたものでありませう。當時アメリカにゐた前田河廣一郎君から、その新聞を送つてくれたのであります。
明治四十四年一月二十四日の朝、社會主義仲間の名物男齋藤兼次郎君があたふたとやつて來ました。朝から何の用ですか、と尋ねると、上氣して赤い顏した齋藤君は
「やられてゐるさうです」
といふ。
「何がです?」
「いちがやで!」
「ああ! ほんとですか?」
わたしは、ぐつと胸がつまつてきました。
「たうとうやるか。とにかく堺のところに行きませう。先に行つて下さい。わたしは後から行きますから」
實を言ふとわたしも一しよに行きたかつたのですが、小心なわたしは胸がせまつて、動きがとれなくなつたのです。何とかして落ちつきたいと考へて、飯を食つてみようと試みたが、どうしても咽を通りません。お茶をかけて漸く一ぱいの飯を呑みこみましたが、不思議にも少し平靜になつたので、堺家に行きました。氣の小さい自分を省みて、少し恥かしい思ひであつたが、行つて見ると皆が興奮してゐるので、自分ばかりではないとやや安心しました。
幸徳等の遺骸を受取つて落合火葬場に送つたのはその翌日でした。十二名が死刑、他の十二名は刑一等を減じられて無期懲役になつたのです。その無期刑者のうち、坂本清馬君の所持品が私に宅下げになつたので、監獄に受取りに行きました。その時、いろいろの手續に沒頭してゐる間に、坂本君に對する減刑言渡書が紛失しました。驚いて諸方を探してゐると松崎天民といふ新聞記者が風呂敷包の中からそつと引きぬいて書き寫してゐました。恐しい奴だと思つたが怒りもされず、寫眞にとるなら貸してあげるから、用のすみ次第、すぐ返しなさい、といふと喜んで持つて行きました。
生活の逼塞
幸徳は死刑になる直前に端書をよこして支那の同志張繼の所在を問うて來ました。わたしはすぐに支那革命黨の本部である民報社に行つて、それを問ひましたが、張繼はその時歸國してゐたらしかつた。民報社には、その時、章炳麟や汪兆銘や何天炯等がゐましたが、章は幸徳に手紙をあげたいが、屆けられるだらうかと問ひ、わ
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