きには、もう意識がありませんでした。朝おきて元氣に水くみなどしてゐたが、子供に『水をおくれ』と命じ、子供が水を持つていつた時は、すでに、たふれて、意識もなくなつてゐたさうです。だから、兄の家族も、だれ一人最期のお別れを言ふことができなかつたのです。これは、わたしにとつては、つらいことでした。しかし入獄中でなくて、まだしも、よかつたと諦めました。貨車一臺借りぎりで、遺骸を郷里埼玉に運び、貧しいながら兄弟相あつまつて、葬式をすますことができて、いささか心のおちつきを得ました。
わたしの裁判の判決を聞いて、幸徳は管野とともに、新橋の富貴亭といふ普茶料理で、靜かな別離の宴を催してくれました。何ぞはからん、これが幸徳等との最後の別れであつたのです。今にして思へば、あの時の會食がいかにも淋しさうで、わたしの在獄中におこつた、大逆事件の豫感が、あの人人の間にもあつたのではなかつたか。それはただ、後日になつてのわたしの幻想かも知れません。
市ヶ谷の東京監獄に入つてまもなく、突然浴場で内山愚童に出會したのは、まことに奇遇でありました。入浴を終つて、浴場をでようとすると、ひよつこり、そこに現はれたのが愚童ではありませんか。『やあ』『やあ』と一言かはしたばかりで、彼は浴場におしやられてしまひましたが、何の事件で彼がやつてきたのか聞きえなかつたのが殘念でした。しかも、この浴場での『やあ』『やあ』が、彼との永遠の別れのことばになつたのです。彼は何かの出版法違反事件で入つたのでせうが、そのまま幸徳等の大逆事件に連座するにいたつたのです。また東京監獄にゐる間に赤羽巖穴が面會にきて、これから旅にでるとて暫しの別れをつげるのでありましたが、彼はその直後、『農民の福音』といふ小册子を出版した件で、捕へられて入獄しました。そして、この鐵網へだてた面會が彼との永遠の別れになりました。わたしはそれから間もなく、千葉監獄に護送され、そこで赤旗事件で先入してゐた堺、大杉、荒畑、山川や、別口の西川などと久しぶりで對面し、入浴と體操でいつも一しよになりました。彼等がいづれも赤ばんてんに股引の勇ましい姿をして、元氣らしく見えるのが、うらやましいほどでした。それに引きかへ、事件の性質上輕禁錮であつたので、わたしは、じよなじよなと長衣をまとうてゐたので運動も思ふにまかせず、諸君がうらやましくてなりませんでした。わたし
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