出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。
 わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。
 さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『この世は墓場のやうなものだ、生きた人間はめつたにゐないで、幽靈や惡鬼どもが、墓石の間から、ぬけでて來て到るところに陰險な惡事をはたらいてゐる』といふやうなことを書いたのではないかと思ひます。いろいろの都合で裁判をひきのばし、刑が確定していよいよ入獄となつたのは明治四十三年三月ごろであつたと思ひます。
 わたしの入獄がきまつた時、わたしは母の突然の死に會ひました。なにしろ二度目の入獄なので、母はよほど心にこたへたと見えて、『わたしはお前が惡人だとは、どうしても思へない。警察へ行つて談判してやる』と言つてくやしがつてゐました。兄がなだめて『お母さんが幾ら談判しても、三四郎の罪がゆるされるものでも、輕くなるものでもないから、それは無駄です、三四郎の仕事は後世にのこる、歴史的な大きな仕事なんだから、お母さんは自慢してよいのです』と、いつもと變つてねんごろに説くのでありました。二人の兄が刑事事件で、長く獄中に生活し、今度は三男のわたしが、二度までも入獄するといふので、老母は相當に心を惱ましたらしいのです。當時上京して、兄とともに飯田町に居を卜してゐた母は、突然腦溢血でたふれ、わたしが飛んで行つたと
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