百姓日記
石川三四郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欧羅巴《ヨーロツパ》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コルフラワア[#「ワア」に「(ママ)」の注記]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)かず/\
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私の農事実験所
欧羅巴《ヨーロツパ》に漂浪のみぎり、私は五六年の間、仏蘭西《フランス》で百姓生活を営んで来た。馬鈴薯が枝に実ると思つた程無智な素人が、トマト、オニオン、メロン、コルフラワア[#「ワア」に「(ママ)」の注記]から、人蔘、カブラ、イチゴ、茄子、隠元、南瓜まで、立派に模範的に作れる様になつた。果樹の栽培もやつた。葡萄酒も造つた。林檎酒も造つた。町の人々が来て、私の畠を、農事試験場の様だと評したほど種々なものを試みた。米も、落花生も作つて見たが、之は全然失敗に終つた。
労働も可なり激しかつた。殊に夏は、最も繁激な時期である。朝四時から夜の十二時まで働き通すことが屡々あつた。収穫から、罎詰、殺菌まで一日の間に成し終らねばならぬ物になると、どうしても斯うならざるを得ないのである。其代り、斯うして青い物を保存して置くと、真冬の間でも、新鮮な青物を常に食膳に載せることが出来る。主として菜食主義の生活をするものには、之は必要欠く可からざる仕事であつた。
先づ、こんな風にして、兎に角、五六年の間、殆んど自給自足の生活を送つて来た。此百姓生活の日々の出来事を朦朧たる記憶を辿つて書いて見やうと言ふのだが……。諸君如何でしやう? 少しは面白そうでしやうか。何かの為になるでしやうか。兎に角、一回見本を出して、果して此狭い紙面に割込ますだけの価値があるかどうか、伺ひをたてる事に致します。
種まき
馬鈴薯が枝に成るものと思つた失敗談は、『我等』に書き、拙著『非進化論と人生』にも載せたから、此処には省略する。
種の蒔きかた。是はぞうさなさそうで、仲々六ヶしいもの。大豆、小豆、隠元の様なものは難かしいことも無いが、細かい種、殊に人蔘の種蒔は、ちよと六ヶしい、仏蘭西で某る農学校の校長さんが、「人蔘の種蒔は、此学校の先生よりは、隣りの畠の婆さんの方がよつぽど上手です」と歎息した話を聞いたが、其通りだ。
種蒔は、深すぎても浅すぎても不可《いけ》ない。しめり過ぎた処に蒔けば腐る。燥いた処に蒔いた後で永く雨が降らなければ枯れて了ふ。だから、百姓する第一要件として天候気象の判識力を要する。東京の気象台の天気予報の様な判識力では、先づ百姓様になる資格はないと言つて可い。実際田舎の百姓老爺に伺ひを立てゝ見ると、博士さん達の予報よりは、よつぽど確かだ。隠元の葉が竪になれば雨が降り、横になれば、日でり、向ふの山の端に白雲がかゝれば風が起る。暴風の襲来せんとする時は、小鳥でも鶏でも、居処がちがふ。殊に雛を持つ雌鶏のこうした事に敏感なことは神秘なものである。バロメエタアも大きな標準にはなるが、動物の直感は更に鋭敏で間違が無い。常に自然の中に生活する百姓は、自然と同情同感になつて居るので、自ら気象学者になつて居る。眼に一丁字無き百姓婆さんも、こうしてそこらの博士さん達よりも本当の学者になつて居る。此に於て、農学博士さんも人蔘の種蒔では、到底無学の婆さんに及ばない訳。農学博士が多くなるに従つて、其国の田園が益々荒蕪する訳。
無文字の婆さんは、直覚的に、適当な時機と場所とを選んで、適当な種を蒔く。生きた婆さんの直覚的判断は、生きた自然とぴつたり一致して共に真実の創造的芸術が行はれる。科学は無知の法則だ、と英国の百姓仲間のカアペンタアは言つたが、今の所謂学問なぞすればするほど無知になる。そして三年も農学を勉強すると人蔘も大根も作れなくなる。之が今日の教育だ。
……おや、おや、是れは、とんだ失礼を申上げて申訳ない。私は初めから、右の婆さん式で百姓して来たので、些か農学者達に反感を持つて居る。そして此見本も体を失ふに至つた次第、今更、如何とも致方が無い、今日の処は御容赦を乞ふ。
最後に諸君、今は畠を深く鋤耕して深く太陽の光を地下に注ぎ、諸播種の場所を用意する時です。果樹の枝を裁断する時、樹皮を掃除し払拭して病菌や寄生虫を駆除する時期、地にうんと肥料を注いで来るべき収穫の約束を結び置くべき時期、一年の成効と失敗とは今日に於て決せられるのです。諸君大いに奮発努力を誓ひましやう。
◇
動物の観察[#「動物の観察」に丸傍点] 是は前回に書いたが更に補足して置く。猫が面を洗ひ化粧する時、水鳥が羽ばたきする時、諸鳥
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