馬鈴薯からトマト迄
石川三四郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)和蘭《オランダ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五六年間|仏蘭西《フランス》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)スバラシ[#「スバラシ」に傍点]い

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)蜿々《ゑん/\》たる
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 自然ほど良い教育者はない。ルソオが自然に帰れと言ふた語の中には限り無く深い意味が味はれる。自然は良い教育者であると同時に、又無尽蔵の図書館である。自然の中に書かれた事実ほど多種多様にして、而も明瞭精確な記録はあるまい。音楽が人間の美魂の直射的表現である点に於て、諸他の芸術に勝る如く、自然の芸術ほど原始的にして直射的な美神の表現は他に存在しない。自然は良教育者にして、大芸術家にして、又、智識の包蔵者である。
 こんな風に、五六年間|仏蘭西《フランス》で百姓した後、こんな風に感ぜられて、私はうれしかつた。
 実際、百姓をし始めて、自分の無智に驚いた時ほど、私は自分の学問の無価値を痛感したことは無い。学校の先生の口を通じて聞いた智識、書斎の学者のペンを通じて読んだ理論、其れが絶対に無価値だとは勿論言へないが、併し私達の生活には余り効能の多くないものである。殊に平生室内にばかり引込み勝ちであつた私は、自然に対して無智、無感興であつたことに驚かされたのである。

         ◇

 一九一五年二月、私は独逸軍占領のブルツセル市を脱け出して、和蘭《オランダ》の国境を超へ、英国に渡り、更に海峡を過《よぎ》つて仏蘭西に落ち延びた。そして北仏の戦線に近い、リアンクウルと言ふ小さな町に細い命を継いで行くことになつた。
 暫らくする内に、社会主義者中の一部に、講和論が起つて来た。そして又、誰言ふと無く、革命が起るかも知れない、といふ噂が伝へられた。
 私はブルツセル市在住中からチヨと知り合になつて居た人の家の留守番として、身を此家に落着けたのである。此家には可なり広い温室もあり、又勿体ない程、良く設備された大庭園があつた。其立派な庭園の外に広い畠もあつて、林檎や梨や葡萄やが栽培され、野菜ものゝ為にも広い地面があけてあつた。「革命が起るとすれば、最初に必要なものは食物だ」と私は考へた。そこで直に人蔘やカブラやインゲン豆|抔《など》を蒔き、殊に多くの馬鈴薯を蒔いた。勿論近所の人に教はつて蒔いたのだが、併し、蒔かれたものは不思議に皆よく発生した。豆や馬鈴薯が、乾いた地面を突破つて、勢力の充実した翠芽を地上に突出して来る有様は、小気味の好いこと譬へやうも無い程であつた。若い豆の葉が、規則正しく葉並を揃へて、浮彫の様に地上を飾る時分は、毎朝早起して露つぽい畠を見舞ふのが何よりも楽しみであつた。
「不思議なものだ!」
 幾度、私はコウ独語したことであらう。生れて初めて種蒔といふことを行つて見たのである。勿論私に取つては是れは直接生活問題に係はるので、可なり真剣に蒔付労働に熱中したのではあるが、今此スバラシ[#「スバラシ」に傍点]い勢で発生する植物の姿を見ては、自然の創造力の不可思議なのに驚異を感ぜずには居られなかつた。是迄、自然といふものに全然無智であつたことも、亦一層私に「不可思議!」の感を懐かしめたのであらう。

         ◇

 私の家は戦線に近かつたので、兵隊さんが絶えず来宿した。大きな厩があつたので、馬の宿にも当てられた。其為に肥料として最も佳い馬糞が有り余るほど貯へられてあつた。畠をうなふ[#「うなふ」に傍点]前に私はブルエツト(小車)で何十回といふ程、其馬糞を運び入れた。今、其馬糞が土地を温め、若い植物を元気づけて居るのである。
 人蔘もカブラ[#「カブラ」に傍点]もインゲン[#「インゲン」に傍点]も非常に立派に出来た。私一人ではトテも喰べきれないので、好便の度毎に巴里に居る家主の処へ送つてやつた。肉類の余り新らしいのは甘くないが、野菜物ばかりは畠から取りたてに限る。私の巴里に送つた野菜物は、全然八百屋の物とは味が違ふのであつた。甘い果物や野菜物を味い得るのは、是れは田園生活者の特に恵まれたる幸福である。
 仏蘭西に、予期された革命は来なかつたが、私の蒔いた種は、予期されたよりは立派に発生した。馬鈴薯などはズンズン延びて、林の様に生ひ茂つた。そして其濃い緑葉の中に、星の様に輝やいた美しい花をも開いた。此馬鈴薯は、当国ではパンに次いでの重要な食料である。其重要な食料が立派に発育したので、私の喜びは非常なものであつた。
 処が其馬鈴薯は、九月の末になると、花も落ち、葉の色も褪せて了つた。十月の末になると見る蔭も無く枯れ果てた。更に十一月の末
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