になると枯れた茎も腐つて了つた。景気ばかり立派だつたが、是は失敗だつた、と私は思つた。ケレども曽て入獄の際、一年有余、馬鈴薯の御馳走にばかりなつた結果として、之を喰ふことが嫌ひになつた私は、左程残念にも思はなかつた。それに革命は来そうにもないし、馬鈴薯なんぞは入らない、と観念した。
 其時分、巴里から、家主の妻君が遊びに来た。家の掃除になど来る女中も来て、一しよに庭園や畠を見廻はつた。馬鈴薯畑の処を通りながら、女中は私にコウ言ふた。
「石川様《モシユ・イシカワ》、馬鈴薯《ポム・ド・テエル》を取入れなくては、イケませんよ」
 私は、此女め、己を嘲弄するのだな、有りもしない馬鈴薯を収穫することが出来やうか、と少々腹立たしく感じた。
「オヽ、ポム・ド・テエル! 皆無です! 皆無です!」
と、頗る神経立つて私は答へた。
「|皆無です《トウー・テ・ペルデユ》? 貴方は掘つて見たのですか?」
「ノオヽマダム」
「掘つても見ないでドウして分ります?」
 コウ言ひながら女中は手で以て土を掻いた。そして忽ち、ハチ切れる様に充実した、色沢《いろつや》の生々した、大きなポム・ド・テエルをコロコロと掘り出した。
「ホホオ! ホホオ!」
と、私は驚異の眼を見張りながら叫んだ。其れを見た夫人は又叫んだ。
「|立派に出来ました《ビヤン・レユツシー》、大成効《グラン・シユクセ》!」
 私は不思議な程に感じながら、
「|私は知らなかつた《ジユ・ヌ・サベエパ》! 私は知らなかつた!」
と言ふと、マダムはさへぎつて、
「何を?」
「其れが地の中に出来ることをです」
 コウ私が答へると、マダムも女中も腹を抱へて笑ひ崩れた。私は少年の頃、一度や二度は馬鈴薯の耕作を見たこともあつたろうし、能く考へて見れば、馬鈴薯が地中に成熟する位のことは脳髄のドコかに知つて居たに相違無いが、当時はそれを思ひ出せなかつたのだ。マダムは笑から漸く脱して、そして説明する様に言ふた。
「地の中に出来るからこそ、ポム・ド・テエル(地中の林檎)と言ふのぢやありませんか」
 此一語に私はスツかり感服させられて、
「|成る程《オン・ネツフエ》!」
の一語を僅かに洩すのみであつた。

         ◇

 私は其翌年の初夏に、此戒厳地を去つて、巴里から西南方に四百キロメートルも隔つたドルドオニ河の辺に移住することになつた。風光明媚なドルドオニ河域、其昔聖者フエネロンを出し、近く碩学エリイ、エリゼ、オネシム、ポオル等のルクリユ四兄弟を出し、社会学者のタルドを出した此渓流は、到処《いたるところ》に古いシヤトオと古蹟とあり、気候も温暖にして頗る住居に好い処であつた。殊に私の居を定めたドム町は、四面断崖絶壁を繞らした三百メートル以上の高丘上に建てられた封建城市で、今も尚ほ中古の姿を多く其儘に保存した古風な町である。渓間の停車場で下車し、馬車を持て出迎へられたマダム・ルクリユに伴はれて、特に馬車を辞して蜿々《ゑん/\》たる小径を攀《よ》じ登つた時、其れは真に「人間に非ざる別天地」である、と私は感歎せざるを得なかつた。忘れもせぬ、其れは一九一六年六月十一日であつた。
「貴方の来るのを毎日待つて居たのですけれども、到頭待ち切れないで、近所の子供に採らせて了いました」
 可なりに荒れて居る庭園を私に示しながらマダムは大きな二本の桜の木を見上げてコウ言つた。
「何と甘いのだつたか、其れは想像も出来ないほど美味いのでした。貴方に味つて戴けないのは残念でした」
 戒厳地帯の旧住居を去るには、厳重な複雑な手続を経て旅券を交附されねばならなかつた。其為に私のドム町行きは予定よりも一ヶ月も遅れて了つたのだ。「石川さんが来るから、とマダムは毎日お待ちして居ましたが、到頭御間に合ひませんでした」と女中も言葉を添へた。見事な美味い桜の実は、私の着く一週間前に採入れねばならなかつた。
 庭園は一町余りの処に、大部分は葡萄が植え付けられてあつた。尤も其中には数十本の果樹類も成長して居た。そして野菜畑は其中の三分一位に過ぎなかつた。此家の今の主人は、宗教史の権威エリイ・ルクリユの長子ポオル・ルクリユ氏で、私が白国ブルツセル市滞在中止宿したのも此人の家庭であつた。ポオル氏は叔父エリゼの後を継いで、ブ市新大学の教授となり、又同叔父の遺業たる同大学高等地理学院を主幹して居た人である。開戦の後、同氏夫婦は身を以てブルツセル市を脱去つたのである。その後、二人の子は出征し、ポオル氏は造兵廠に働き、夫人独り此山家にわびしい[#「わびしい」に傍点]生活を送るのであつた。
 其庭園を耕すべく、一人の老農夫が時々働きに来た。英独語は勿論のこと、伊西両語をも操つるといふ学者の夫人は、あらくれ男の様に鋤鍬を執つて働くのを好んで居た。
「是れは私の蒔いたのです」

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