オニ河域、其昔聖者フエネロンを出し、近く碩学エリイ、エリゼ、オネシム、ポオル等のルクリユ四兄弟を出し、社会学者のタルドを出した此渓流は、到処《いたるところ》に古いシヤトオと古蹟とあり、気候も温暖にして頗る住居に好い処であつた。殊に私の居を定めたドム町は、四面断崖絶壁を繞らした三百メートル以上の高丘上に建てられた封建城市で、今も尚ほ中古の姿を多く其儘に保存した古風な町である。渓間の停車場で下車し、馬車を持て出迎へられたマダム・ルクリユに伴はれて、特に馬車を辞して蜿々《ゑん/\》たる小径を攀《よ》じ登つた時、其れは真に「人間に非ざる別天地」である、と私は感歎せざるを得なかつた。忘れもせぬ、其れは一九一六年六月十一日であつた。
「貴方の来るのを毎日待つて居たのですけれども、到頭待ち切れないで、近所の子供に採らせて了いました」
可なりに荒れて居る庭園を私に示しながらマダムは大きな二本の桜の木を見上げてコウ言つた。
「何と甘いのだつたか、其れは想像も出来ないほど美味いのでした。貴方に味つて戴けないのは残念でした」
戒厳地帯の旧住居を去るには、厳重な複雑な手続を経て旅券を交附されねばならなかつた。其為に私のドム町行きは予定よりも一ヶ月も遅れて了つたのだ。「石川さんが来るから、とマダムは毎日お待ちして居ましたが、到頭御間に合ひませんでした」と女中も言葉を添へた。見事な美味い桜の実は、私の着く一週間前に採入れねばならなかつた。
庭園は一町余りの処に、大部分は葡萄が植え付けられてあつた。尤も其中には数十本の果樹類も成長して居た。そして野菜畑は其中の三分一位に過ぎなかつた。此家の今の主人は、宗教史の権威エリイ・ルクリユの長子ポオル・ルクリユ氏で、私が白国ブルツセル市滞在中止宿したのも此人の家庭であつた。ポオル氏は叔父エリゼの後を継いで、ブ市新大学の教授となり、又同叔父の遺業たる同大学高等地理学院を主幹して居た人である。開戦の後、同氏夫婦は身を以てブルツセル市を脱去つたのである。その後、二人の子は出征し、ポオル氏は造兵廠に働き、夫人独り此山家にわびしい[#「わびしい」に傍点]生活を送るのであつた。
其庭園を耕すべく、一人の老農夫が時々働きに来た。英独語は勿論のこと、伊西両語をも操つるといふ学者の夫人は、あらくれ男の様に鋤鍬を執つて働くのを好んで居た。
「是れは私の蒔いたのです」
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