農民自治の理論と実際
石川三四郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)素盞嗚尊《すさのをのみこと》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)悧※[#「りっしんべん+巧」、429−3]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

         一

 私の今から申し上げやうとすることは政談演説や労働運動の講演会といふ様なものではなくて、ごくじみ[#「じみ」に傍点]な話であります。初に農民自治の理論を話して、次にその実際を話したいと思ひます。
 理論としては第一に自治といふことの意義、第二に支配制度、政治制度の不条理なこと、第三に土地と人類との関係、即ち自治は結局は土着生活であること、土着のない自治制度はないこと、土民生活こそ農民自治の生活であることを述べたいと思つてをります。実際としてはこの理論の実行方法とそれへの歩みを述べるために、第一社会的方法、第二個人的方法に分けてお話いたします。

         二

 地上の全生物は自治してをります。単に動物だけではなく植物もみな自治生活を営んで居ります。
 蟻は何万、何十万といふ程多数のものが自治協同の生活をしてをります。蟻の中には諸君も御存知のやうに戦争をするのもありますが、それでも自分たちの仲間の間では相互扶助的な美くしい生活をしてをります。春から夏へかけて一生懸命に働いて沢山の食糧を集め、冬越の用意をいたします。土の下に倉庫を造り、科学的方法で貯へて、必要に応じてそれを使ひます。お互の間には礼儀もあり規律もあり、その社会制度は立派なものであります。しかし他部落の者が襲撃して来た時などには勇敢に戦争をいたします。私はその戦争をみたことがあります。
 丁度フランスにゐた時のことであります。
 フランスの家はみな壁が厚くて二尺五寸位もあります。あの千尺も高い絶壁の様な上に私どもの村がありました。そこのある一軒の家に住つて百姓をしてをりました。その頃は忙しい時には朝から夜の十二時頃までも働いて居りました。ある夜、遅く室に帰つて来て床につきましたが、何だか気持がわるいので起きてランプをつけてみると大へん。十畳ばかりの室の半分は真黒になつて蟻が戦争をして居ります。盛んに噛み合つてゐる有様は身の毛がよだつばかりでした。蟻を追ひ出さうと思つてにんにく[#「にんにく」に傍点]を刻んで撒いたがなか/\逃げない。翌日も戦ひ通してゐましたが、その噛み着いてゐる蟻の腹をつぶしてみても、決して離さないで、噛みつかれた方は其敵に噛みつかれた儘かけ廻つてゐた位であります。然しその翌朝になると戦がすんだと見えて、一匹残らず退いてしまひ、死骸もみんな奇麗に片づけてしまひました。蟻は支配のない社会生活を営み乍ら、協同一致して各自の社会の幸福と安寧をはかり、その危険に際しては実に勇敢に戦ひます。
 蜂の社会に支配者はありません。暖い日には一里も二里も遠く飛び廻り、足の毛に花粉をつけては持つてかへつて冬越の為に貯へます。かうして皆がよく働いて遊人といふものがありません。但し生殖蜂といふものがありますが、これは目的を達した後には死んでしまつて、後には労働蜂と雌蜂とだけが残ります。「働かざる者食ふべからず」といふことは人間社会では新しい言葉のやうに言つてゐますが、動物社会には昔からあつたことであります。
 進化論者は人間は最も進歩したものだといふが、蟻や蜂の方が遙に道徳的であつて、人間は悪い方へ進歩して居ります。殊に此頃では資本家だとか役人だとかいふ者が出来て、この人間社会を益々悪い方へ進歩させて居ります。蜂は巣の中においしい蜜を貯へて居りますが、他の群から襲はれる時には実に猛烈に戦つて、討死するも省みないのであります。マーテルリンクは『蜂の生活』といふ本を書きましたが、その中には蜂の愛国心、或は愛巣心といふべきものが如何に強いものであるかを詳に説いて居ります。これは我々にしてみれば愛郷心、愛村心ともいふべきものであります。然るにそれ程までに死力をつくして守つた巣も、自分たちの若い子孫にゆずる時には、蜜を満してをいて自分たちの雌蜂を擁護して、そつ[#「そつ」に傍点]と他の新しい場所へ出ていきます。人間社会によくある様に「俺の目玉の黒い中は……」なんて親が子に相続させないで喧嘩する様なことはありません。
 此外、鳥にしても他の動物にしてもみな同じことで、美くしい社会組織をもつて自治生活をつゞけてをります。
 単に自分たちの種類の中だけではなく、他のいろ/\な種類とも共同生活をして居るのもあります。中央アメリカ旅行者の記録によると、人間に家の周囲は恰も動物園の如き有様ださうであります。主人と客とを見分け、自分の家と家族の人たちをよく覚えてをります。他人が来ると警戒して喧しく鳴き立てます。又、狼、豹等も住民に馴れてゐるし、小鳥は樹上で囀つてゐる、殊に若い娘はよく猛獣と親しみ、その耳や頭の動かし方、声の出し方などでその心理を理解するし、動物もよく娘の心理を理解します。かうして野蛮人の家が丁度動物園の如き奇観を呈し、動物と人との共同の村落生活を実現してゐるさうであります。
 植物の自治生活については私の申し上げるまでもありません。春は花が咲き、秋には実り、自らの力で美くしい果実を実らせます。そしてだん/″\自分の種族を繁殖させます。
 七八十年来、進化論が唱へられ、生存競争が進化の道であると言はれて居ります。この進化論はワレスやダーウヰンが唱え出したものでありますが、之に対してクロポトキンは相互扶助こそ文明進歩の道であるといふことを唱へて居ります。生存競争論では強い者が勝つて、他を支配するといふのであります。しかし支配といふことは動物社会には事実存在しないことであります。他の団体に餌を求めていくことはあつても、その団体を支配することなどは事実としてはないことであります。
 今、植物の例にうつります。桃の木を自然の生育に委せてをくと多くの花が咲きますが、その三分の一ばかりが小さな実を結びます。それから成熟して立派な実となるのは、又その三分の一ばかりであります。進化論者はこれも生存競争の為だといふかもしれませんが、それは一の既定概念による判断に過ぎないのであります。見方によつては生存競争といふよりも、むしろ相互扶助の精神の現はれと考へることも出来ます。林檎や梨の木も同様であります。
 皆さんも御存知の通り木の皮の下には白い汁が流れて居ります。あの液汁が余りに盛んに下から上へ上ると花は咲きません。たゞ木が大きくなり葉が茂るばかりであります。今その枝を少し曲げて水平にすると花が咲き、又多く実ります。これは光線と液汁との調和が取れるからであります。この時に落ちていく花は競争に負けたのではなくして、太陽の光線との調和の為めに多く咲き、後には他を実らす為に犠牲になつたと考へたいと思ひます。多く咲くのは調節のためであります。戦争に於て第一線に立つて金鵄勲章をもらふ者のみが国防の任に当るのではなく、後方の電信隊、運搬者、農夫等も必要な任務をつくしてゐると同様に、実つたもののみが使命をつくしてゐるのではなく、落ちた花にも使命があると考へたいのであります。戦争の時に第一線の者だけが勇者で、人知れぬ所で弾丸に当つて斃れた者が勇者でないとするやうな考へ方には共鳴出来ません。しかるに今の社会組織が生存競争主義になつてゐるから、殊に其様に間違つた考へ方、間違つた事実が生ずるのであります。
 日露戦争当時、私はある事件で入獄してをりましたが、その時にある看守はこんな事をいひました。「お前たちは幸福なものである。我々は毎日十六時間づゝ働いてゐる。而も二時間毎に二十分づゝ腰掛けることが出来るだけで、一寸でも居眠でもすると三日分の俸給を引かれる。然るにお前たちは毎日さうして読書してゐることが出来る。実に幸福なものである」といつて我々を羨むのでありました。そういひ乍ら我々を大切に世話してくれます。彼等からいふと我々は商品の様なものであります。司法大臣でも廻つてくる時に少しでも取扱方に落度があればすぐに罰俸を喰ふのであります。
 さて或る時お上からお達しが監獄へ来て、「戦争の折であるから倹約をせよ」といつて来ました。そこで監獄の役人たちはいろ/\と相談を致しましたが、囚人の食物を減ずることも出来ないので、看守の人員を減ずるより仕方ないといふことになり、百五十人を百人に減じました。看守さんたちは眠いのを辛抱して以前にも増して働きましたが、その結果として典獄さん一人が表彰されたのみで他の看守さんたちは何一つも賞められなかつたのであります。その典獄さんは実際よい人でありました。私やその当時隣の室にゐた大杉などを側へ呼びよせて「お前たちは立派な者だ、社会のために先覚者として働いて貴い犠牲となつたのだ」とて、大そう親切にしてくれました。この典獄さんが表彰されたことはお目出たいことでしたが、「俺たちは太陽の光で新聞を読んだことがない」といつてゐる看守たちが少しの恩典にも浴することが出来なかつたのは何としたことでせうか。賞与をもらはなかつた看守も国家のためになつてゐることは明かですが、生存競争主義で組織された世の中であるから上の者だけが賞与にあづかるのも己むをえないのであります。こゝに来てゐらつしやる巡査さんもこのことはよく御承知の筈だと思ひます。
 このごろ東京では泥棒がつかまらないので巡査を何千人か増員するといつてをりますが、下の巡査が能率をあげれば上の人が褒美をもらふまでゞあります。これは単に警察や監獄の中だけではなく、会社でも、学校でも、銀行でも、又農村でも到る所同様であります。だから皆が何でも偉い者にならうとしてあせつて、一つづつ上へ/\と出世をしたがります。平教員よりも校長に、巡査よりも部長にといふのが今の世の中の総ての人々の心理であります。
 然し上の位の人だけが手柄があるのかといふとさうではありません。どんなに下の位の者でもみなそれ/″\の働きをしなければ、いくら上の人が命令をしても何一つまとまつた仕事は出来ないのであります。然るに今日の生存競争の考へからすれば馬鹿と悧※[#「りっしんべん+巧」、429−3]とが出来るのであるが、人といふ見地からすれば一人で総てを兼ねることは出来ません。どんなに馬鹿と見えても必ず誰にも代表されない特長を持つてゐるものであります。特別の体質と性質とを持つてゐて、そこに個人としての特別の価値を持つてをります。悧※[#「りっしんべん+巧」、429−6]とか馬鹿とかいふが甲の国で悧※[#「りっしんべん+巧」、429−6]な人、必ずしも乙の国で悧※[#「りっしんべん+巧」、429−6]とは限らず、乙の時代に悧※[#「りっしんべん+巧」、429−7]な人、必ずしも丙の時代に適するとは限らないものであります。この通り、総ての動物総ての植物に至るまで、みなそれ/″\の使命を持つてゐることは人間におけると同様であります。

 こゝで人間社会のことを考へてみませう。だが近代社会のことは言はぬことにいたします。それはあまり悪現象に充ち満ちてゐるからであります。太古、ヨーロツパ文明にふれない野蛮人の生活についてゞあります。
 モルガンといふ社会学者はアメリカに渡り、土着人の社会生活を研究して『古代社会』といふ本を書いてをります。彼の研究によると、米国の一地方に住居したエロキユアス人種といふのは支配なく統治なく、四民平等の自治協同の生活をしてをつたといふことであります。この人たちはある事柄を決するのに皆が決議参与権を持つて居ります。日本では今頃になつて普通選挙などゝ騒いでゐるが、この人種は既に全部の人が参与権を持つて居りました。そして村は村として一つの独立の団体であつて、決して大きな全体の一機構ではなかつたのであります。
 フ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 三四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング