ロタシヨンとレボリユシヨンの運行、是れ自然の大なる舞曲である。律侶《りつりよ》ある詩其ものである。楽其ものである。俗耳の聴く能はざる楽、俗眼の見る能はざる舞、俗情の了解し能はざる詩である。梢上に囀づる小鳥の声も、渓谷を下る潺閑《せんかん》たる流も、山端に吹く松風の音も、浜辺に寄する女波男波のさゝやきも、即ち是れ地のオーケストラの一部奏に過ぎない。地は偉大なる芸術者である。
吾等は地の子、土民たることを光栄とする。吾等は日本歴史中「土民起る」の句に屡々遭遇する。又、世人革命を語るに必ず「蓆旗竹鎗」の語を用ゐる。蓆旗竹鎗は即ち土民のシムボルである。其「土民起る」の時、其蓆旗竹鎗の閃めく時、社会の改造は即ち地のレボリユシヨンと共鳴する。幻影の上に建てられたるバベルの塔は其高さが或る程度に達したる時、地の回転運動の為に振り落されるのである。其幻滅のレボリユシヨンは即ち地のドラマである。
十一
地のロタシヨンは吾等に昼夜を与へ、地のレボリユシヨンは吾等に春夏秋冬を与へる。此昼夜と春夏秋冬とに由りて、地は吾等に産業を与へる。地の産業は同時に又地の芸術である。芸術と産業とは
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