分業の利益の数々は認めなければならないが、然し今は労働の綜合を絶叫すべき時であることを容易に発見する。」(能智修彌氏訳『田園・工場・仕事場』五頁―七頁)

     ○ セエとコント

 分業の弊害を認めた学者は古くからあつた。アダム・スミスが「分業」といふ文字を作り、それを学理的に論じてから間もなく、仏国のジヤン・バチスト・セエ(一七六七―一八三二年)は一人の人間が常に針の十八分の一の部分だけを作つて暮らすなぞといふことは人間性の尊厳を堕落させるものだと言つてゐる。ルモンテイ(一七六二―一八二六年)は又分業に関して、近代労働者の生活と未開人の広い自由な生活とを比較して、未開人の方が遙かに恵まれてゐると考へた。オーギユスト・コント(一七九八―一八五七年)も之に就て言つてゐる。「物質方面に於て、労働者が、その生涯の間、小刀の柄や留針の頭の製造に没頭する運命が悲しまれるのは当然であるが、然らば、知識の方面に於て、或る方程式の決定とか、又は或昆虫の分類のみに、人間の一つの脳髄を永続的に使用するといふことは、健全な哲学から見て、同様に悲しむべきことではないか。その道徳的結果は不幸にして何れの場
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