ぞと如何にも不忠の民の様に聞え、堯の聖代の事実としては受取れない様に思れるが、決して、さうでは無い。是は堯の如き聖者の下に於ては、余り善く世の中が治つて、其恵が行き渡つて居ることを記したものである。宛《あたか》も太陽の恵を吾々が忘れて居る如く、天子の威力が眼立たないのである。こうして農民が鼓腹撃壤して人生を享楽することが出来るならば、農村は誠に明るい楽しい処となり、哀れな忙《せ》はしい都会なぞには行きたいとも思はないであらう。夏の虫が火を眼がけて飛び込むのは、暗い夜のことである。我慾の猛火が漲つてゐる都会に、世の人々が引き付けられるのも、矢張り暗黒の時代に限つて居る。
 自然は美しい。山下林間の静寂地に心の塵を洗ひ、水辺緑蔭の幽閑境に養神の快を貪るといふ様な事は、誰しも好ましく思ふ処である。然るに今日の農民は、美しい自然の中に生活しながら、其れを享楽することが出来ない。山紫水明の勝地は傷ましくも悉く都会のブルジヨア、金持達の蹂躙する処となつて、万人の共楽を許さない。資産ある者は、文明の利益をも、美しい自然をも、悉く独占して、その製造と耕作とに従事する労働者や農夫等は、却て其文明の為に、
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