珈琲店より
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)珈琲店《カフエ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔OPE'RA〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 例の MONTMARTRE の珈琲店《カフエ》で酒をのんで居る。此頃、僕の顔に非常な悲しみが潜んでゐるといつた君に、僕の一つの経験を話したくなつた。まあ読んでくれたまへ。
 〔OPE'RA〕 のはねたのが、かれこれ、十二時近くであつた。花の香ひと、油の香ひで蒸される様に暖かつた劇場の中から、急に往来へ出たので、春とはいひながら、夜更けの風が半ば気持ちよく、半ば無作法に感じられた。
 〔AVENUE DE L'OPE'RA〕 の数千の街灯が遠見の書割の様に並んで見える。芝居がへりの群衆が派手な衣裳に黒い DOMINO を引つかけて右にゆき、左に行く。僕は薄い外套の襟を立てて、このまま画室へ帰らうか、SOUPER でも喰はうか、と 〔ME'TRO〕 の入口の欄干の大理石によりかかつて考へた。
 五六日、夜ふかしが続くので、今夜は帰つて善く眠らうと心を極めて、〔ME'TRO〕 の地下の停車場へ降りかけた。籠つて湿つた空気の臭ひと薄暗い隧道《トンネル》とが人を吸ひ込まうとしてゐる。十燭の電灯が隧道の曲り角にぼんやりと光つてゐる。其の下をちらと絹帽が黒く光つて通つた。僕は降りかけた足を停めた。画室の寒い薄暗い窖《あなぐら》の様な寝室がまざまざと眼に見えて、今、此の PLACE に波をうつてゐる群衆から離れて、一人あんな遠くへ帰つてゆくのが、如何にも INHUMAIN の事の様に思へてならなかつた。
“UN HOMME!  MOI AUSSI”と心に叫んで、引つかへして、元の〔OPE'RA〕の前の広場に立つた。アアク灯と白熱瓦斯の街灯とが僕の影を ASPHALTE の地面の上へ五つ六つに交差して描いた。
“VOILA UN JAPONAIS! QUE GRAND!”といふ声が耳のあたりで為た様に思つて振り返つた。五六歩の処を三人連れの女が手を引き合つて BOULEVARD の方へ急いで行く。何処を歩かうといふ考へも無かつた僕は、当然その後から行く可きものの様に急いで歩き出した。
 歩き出したが、別に其の女に追ひつかうといふのではない。ただ、河の瀬を流れる花弁の一つが右へ行くと、其の後のも右へ行く様に吸はれて行つたまでである。〔CRE'DIT LYONNAIS〕 の銀行の真黒な屋根の上に大熊星が朧ろげな色で逆立ちをしてゐる。BOULEVARD の両側の家並の上の方に CHOCOLAT MEUNIER だの、JOURNAL だのの明滅電灯の広告が青くなつたり、赤くなつたりして光つてゐる。芽の大きくなつた並木の MARRONNIER は、軒並みに並んでゐる珈琲店《カフエ》の明りで梢の方から倒《さかし》まに照されて、紫がかつた灰色に果しも無く列つてみえる。その並木の下の人道を強い横光線で、緑つぽい薄墨の闇の中から美しい男や女の顔が浮き出されて、往つたり来たりしてゐる。話声と笑声が車道の馬の蹄に和して一種の節奏《リズム》を作り、空気に飽和してゐる香水《パルフエン》の香と不思議な諧調をなして愉快に聞える。動物園のインコやアウムの館へ行くと、あの黄いろい高い声の雑然とした中に自ら調子があつて、唯の騒音でも無い様なのに似てゐる。僕は此の光りと音と香ひの流れの中を瀬のうねくるままに歩いてゐた。三人の女は鋭い笑ひ声を時々あげながらまだ歩いてゐる。
 僕は生れてから彫刻で育つた。僕の官能はすべて物を彫刻的に感じて来る。僕が WHISTLER の画や、RENOIR の絵を鑑賞し得る様になるまでには随分この彫刻と戦つたのであつた。往来の人を見ると、僕はその裸体が眼についてならないのである。衣裳を越して裸体の MOUVEMENT の美しさに先づ酔はされるのである。
 三人の女の体は皆まるで違つてゐる。その違つた体の MOUVEMENT が入りみだれて、しみじみと美しい。
 ぱつと一段明るい珈琲店《カフエ》の前に来たら、渦の中へ巻き込まれる様にその姿がすつと消えた。気がついたら、僕も大きな珈琲店の角《すみ》の大理石の卓《つくゑ》の前に腰をかけてゐた。
 好きな 〔CAFE' AMERICAIN〕 の CITRON の香ひを賞しながら室を見廻した。急に人の話声が始まつた
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