ゥ、と思ふほど人の声が耳にはいる。急に明るくなつたか、と思ふほど室の美しさが眼に入る。急に熱くなつたかと思ふほど顔がほてつて来た。音楽隊《オルケストラ》では TARANTELLA をやり始めた。
 トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。トララ、トララ、トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。
 僕の神経も悉く躍り出しさうになつた。音の節奏《リズム》に従つて、今此の室にある総ての器、すべての人の分子間に同様な節奏の運動が起つてゐるに違ひない。
 足拍子が方々で始まつた。立派な体に吸ひついた様な薄い衣裳を着けてゐる女が二三人匙を持ちながら踴り出した。わつと喝采が起つた。僕も手を拍つた。
“HALLO! VOICI”と口々に言つて僕の肩を叩いたのは、先刻の女共であつた。
「後をつけていらしつたの?」
「後をつけて来たのではないの。後について来たの。」
「今夜は何処へ入らしつた?」
「〔OPE'RA〕」
「SALAMMBO ね、今夜は。」
「N'APPROCHER PAS; ELLE EST A MOI!」と一人が声高く、手つきをしながら声色をやつた。僕は、体中の神経が皆皮膚の表面へ出てしまつた様になつた。女等の眼、女等の声、女等の香ひが鋭い力で僕の触感から僕を刺戟する様であつた。言ふがままに三人の女に酒をとつた。僕も飲んだ。三人は唄つた。僕は手拍子をとつた。やがて、蒸された肉に麝香を染み込ました様な心になつて一人を連れて珈琲店《カフエ》を出た。
 今夜ほど皮膚の新鮮をあぢはつた事はないと思つた。

 朝になつた。
 白布の中で珈琲《カフエ》と麺麭《クロアソン》を食つた。日が窓から室の中にさし込んでゐる。窓掛けの薄紗を通して遠くに 〔PANTHE'ON〕 の円屋根が緑青色に見える。PIANISSIMO で然も GRANDIOSO な※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛の音がする。襤褸買ひの間の抜けた呼声が古風にきこえる。ごろごろと窓の下を車が通る。静かな騒がしさだ。
 一度眼をさました人は又うとうとと睡つて、長い睫が微かに顫へて見える。腕の筋が時々ぶるぶると痙攣する。
 僕は静かに、昨夕《ゆうべ》 〔OPE'RA〕 に行つてから、今朝までの自分の感情を追つて考へて見た。人の楽しむ事を自分もたのしみ、人の悲しむ事を自分も悲しみ得たのが何より満足に感じた。眼を閉ぢて、それから其へと纏らない考へを弄んで、無責任な心の鬼事に耽つてゐた。
 突然、
“TU DORS?”といふ声がして、QUINQUINA の香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。
 あをい眼!
 その眼の窓から印度洋の紺青の空が見える。多島海の大理石を映してゐるあの海の色が透いて見える。NOTRE DAME の寺院の色硝子の断片。MONET の夏の林の陰の色。濃い SAPHIR の晶玉を 〔MOSQUE'E〕 の宝蔵で見る神秘の色。
 その眼の色がちらと動くと見ると、
「さあ、起きませう。起きて御飯をたべませう」と女が言つた。案外平凡な事を耳にして、驚いて跳ね起きた。女は、今日 〔CAFE' UNIVERSITE'〕 で昼飯《ひるめし》を喰はうといつた。
 ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣《ねまき》のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機《ばね》の外れた様な声がした。
 夢の様な心は此の時、AVALANCHE となつて根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間坐り込んで、しみじみと苦しい思ひを味はつた。
 話といふのは此だけだ。今夜、此から何処へ行かう。



底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
   1991(平成3)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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