ウ責任な心の鬼事に耽つてゐた。
 突然、
“TU DORS?”といふ声がして、QUINQUINA の香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。
 あをい眼!
 その眼の窓から印度洋の紺青の空が見える。多島海の大理石を映してゐるあの海の色が透いて見える。NOTRE DAME の寺院の色硝子の断片。MONET の夏の林の陰の色。濃い SAPHIR の晶玉を 〔MOSQUE'E〕 の宝蔵で見る神秘の色。
 その眼の色がちらと動くと見ると、
「さあ、起きませう。起きて御飯をたべませう」と女が言つた。案外平凡な事を耳にして、驚いて跳ね起きた。女は、今日 〔CAFE' UNIVERSITE'〕 で昼飯《ひるめし》を喰はうといつた。
 ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣《ねまき》のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機《ばね》の外れた様な声がした。
 夢の様な心は此の時、AVALANCHE となつて根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間坐り込んで、しみじみと苦しい思ひを味はつた。
 話といふのは此だけだ。今夜、此から何処へ行かう。



底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
   1991(平成3)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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