緑色の太陽
高村光太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)自由《フライハイト》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちちゅう》逡巡
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔“RAISON D'E^TRE”〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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人は案外下らぬところで行き悩むものである。
いわゆる日本画家は日本画という名にあてられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。飛車よりも歩を可愛がるような羽目に自然と立ち至る事もあるのである。その MOTIV(モチフ)を考えるとおかしくはあるが、行き悩んでいる当面の事局を眼鏡の焦点に置いて考えると、かなり惨酷なものに見えないでもない。無意味な混雑と危険な SONDE(測定)の乱用とは、こんな時にすべての芸術家に課せられる重い通行税である。この意味において、今の日本の芸術家ほどその作品に高価な無益の印紙を貼っているものはない。いたものもない。この重税に反抗して芸術界の ANARCHISMUS(アナーキズム)が起らないとも限るまい。が、そういう所から起って来る ANARCHISMUS は反動的のものである。ANARCHIST の ANARCHISMUS ではないのである。
僕は芸術界の絶対の自由《フライハイト》を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。PERSOENLICHKEIT そのものはそのままに研究もし鑑賞もして、あまり多くの擬議を入れたくないのである。僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何に取扱っているかを SCHAETZEN したいのである。その人がそれを赤と見る事については、
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