lは更に苦情を言いたくないのである。むしろ、自分と異なった自然の観かたのあるのを ANGENEHME UEBERFALL(快い驚き)として、如何ほどまでにその人が自然の核心を窺い得たか、如何ほどまでにその人の GEFUEHL(感覚、感情)が充実しているか、の方を考えて見たいのである。その上でその人の GEMUETSSTIMMUNG(情調)を味いたいのである。僕の心のこの要求は、僕を駆って、この頃人の口に上る地方色というものの価値を極小にしてしまったのである。(英語にいう LOCAL COLOUR(ローカルカラー)は意を二三にするが、ここには普通にある地方の自然の色彩の特色を指す事とする。)僕は地方色などというものを画家が考え悩むのは、前に言った高価な無益の印紙の一つにほかならないと思っている。
 絶対の自由《フライハイト》を要求する僕の態度が間違っていれば、そこから起って来る僕の考索はすべて無価値のものとなってしまうわけである。しかし、これは間違いようのない事に属している。理論でなくして僕の感情であるからである。たとい、間違って居ると言われても僕の頭のある限りは自分でどうする事も出来ない事なのである。やはり思うだけの事は述べて見たい。
 僕は生れて日本人である。魚が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙って居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚が水に濡れているのを意識していない如く、僕は日本人だという事を自分で意識していない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。人事との交渉の時によく僕は日本人だと思う。自然に向った時には、僕はあまりその考えが出て来ない。つまり、そう思う時は僕の縄張りを思う時である。自我を対象のものの中に投入している時にはこんな考えの起って来よう筈がない。
 僕の製作時の心理状態は、従って、一箇の人間があるのみである。日本などという考えは更に無い。自分の思うまま見たまま、感じたままを構わずに行《や》るばかりである。後《のち》に見てその作品がいわゆる日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あっても、なくても、僕という作家にとっては些少の差支えもない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零《ゼロ》になるのである。
 地方色の価値をかなりに尊重している人は今の画界になかなか多い事である。日本の
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