しておるものをやってみようと念じていた。学校に在っての制作は二年間くらいは何でもなかったが、その後渡辺長男君が初めて彫塑会という会を作り、学校の生徒だけで展覧会を開いたりするようになってから僕の仕事も段々かわってきた。つまりその頃始めて泥をいじくり出し、例えば坊さんが月を見上げて感慨に耽《ふけ》っているところや女の浴衣《ゆかた》が釘にぶら下っておるという妖気《ようき》の漂う鏡花式みたようなものを無闇に作ったが、それが当時の彫塑会では新しかった。後にこういうことが間違った新しい彫刻運動のもとになったりした。
 その頃僕は国文の方は美術学校で教えられる外に古典の方をさかんに勉強していた。漢文の方は本田種竹先生に師事した。詩なども大いに読んでいた。それが初めは文学的彫刻となってあらわれ、後にはその文学的彫刻を止揚するために詩歌に近づいた。俳句などもやり、角田竹冷先生からは一等を貰ったりした。折から日本の新派和歌が起り、落合先生は別にしても、久保猪之吉、服部躬治などがいかづち会というのを作って読売などの紙面をさかんに賑わし出した。そういうところへ明治三十三年に「明星」が始まった。これが華々しい
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