して居った。森鴎外先生が美学の方をやり、久米桂一郎先生が解剖学を受持たれた。その学科というものはひどく簡単でほんの申訳みたようなものだったので、僕は馬鹿馬鹿しくて自分で勉強した。試験の時百二十点貰ったことがある。大村西崖先生の時だったが、日常自分で読んでいるものが試験に出てくるのだからそんなことになるのだろう。随分のんきな時代であった。
 ちょうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるようであった。そういう時代には何でも実に面白かったし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだった。当時はまだ電灯はなくて蝋燭《ろうそく》やランプで、ランプも昔は五分|芯《しん》三分芯などがあったが改良されて芯を丸くした空気ランプというのが出来、それが非常に明るいのでそれを使って一生懸命に勉強した。ホヤのついた西洋蝋燭の行灯《あんどん》みたようなものもあって、これはお客様用に使ったりしていた。
 僕の住居は矢張り今の林町だったが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪《たけやぶ》で道の両側は孟宗竹《もうそうちく》が密生
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