殊な一隅の美としてのみ世界の人等に認められていたような偏見を一掃すると共に、ますます幅びろな、高度な美の標準として世界に臨む者としての日本美の源泉的性質を考える事にあった。日本美は今後ますます成長し、豊満し、進展するに違いない。而しそれは決して手当り次第の栄養摂取によっては果されない。十分な自覚と静観とを以て我々の進むべき筋道を心得た上での事でなければならない。私はそういう事の一助にもと思って自分の所見を提示するのである。これまで此意味に於ける日本美の重要な源泉的諸分子を挙げて来たが、最後には矢張能面がよく代表する日本美の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]について一言せねばならぬ。
 能面の最も高き美は鎌倉末期から室町時代にかけて成就した。長い間の日本彫刻の伝統であった仏像彫刻が、鎌倉期の中興を経てついに再び廃頽堕落するに至った室町時代に及んで、その精粋が思いがけない能面のようなものに移り、此所に又別途の新らしい美を創《つく》り出した事は奇観である。芸術美が自然を離れれば必ず枯渇して、足利期仏像のような瑣末《さまつ》形式のくり返しに陥り、一度び自然に眼が開けば必ず新鮮の美が油然と起って、室町時代の能面のような幽玄微妙な神韻を創生するに至った事実はわれわれにとって無上の教訓となる芸術上の恐ろしい約束である。
 背後に蔚然《うつぜん》たる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹《あんたん》たる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。この前後の芸術一般が持つ美には、それゆえ毎《つね》に無常迅速の哀感を内に孕《はら》み、外はむしろ威儀の卓然たるものがあった。猿楽は寺坊の間から起ってこれらの将軍と公卿との寵児《ちょうじ》となり、更に慰楽に飢えた民衆一般の支持をうけ、遠く辺陬《へんすう》の地にまで其の余光を分った。能面の急激な発達は斯《か》くして成就せられたのである。仏像の彫刻がただ形式の踏襲に終始し、ただ工人的|末梢《まっしょう》技巧のめまぐるしい累積となり終った時、此の新興芸術たる物まね[#「物まね」に傍点]の生命たる仮面の製作には実に驚くべき斬新の美が創り出された。
 能面は物まね演技の劇中人物を表現すべきものであるという条件が、その製作者をして勢い活世間の人間の面貌にまず注視を向けしめた。しかも仏像の類と違って賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術的表現を余儀なくさせた。これは人を救う仏でなくて、仏に救われる煩悩の徒である。これは尊崇|措《お》かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍《れんびん》すべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。彼岸の仏|菩薩《ぼさつ》でなくて、吾が隣人であり、又自己そのものである。面打といわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。
 こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有《けう》な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉《せんれん》された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚《たっと》ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学《せきがく》が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司《ちょうでんす》、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑《いとま》なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
 能面の美は演技上の必要から来た其の表情の縹渺性《ひょうびょうせい》に多く基いている。喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、又そのいずれでもあるような、含みを深く湛《たた》えた美の性格を極限の境にまで追及して得た此の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は、世界に類を見ない美の日本的源泉として、今日われわれの内にこんこんと湧いて已《や》まない無限の力を与えてくれる。「般若《はんにゃ》」のような激情の面でさえ、怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に、寂しい自卑自屈の弱さでもある。こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら、恐らく今日の世界に於ける美の感覚の程度では及び難いのではないかと考えられる。われわれは斯《か》かる超高度美を感受し得る美的感覚を、今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。此の源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。
 奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は元来東洋の持つ特性ではあるが、支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性、又は幽玄性には、いつでも平かならざる抵抗性[#「平かならざる抵抗性」に傍点]を内に
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