今度は全体に意識がひどくぼんやりするやうになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のやうに私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思つて、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させてゐた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとつたが、病勢はまるで汽罐車《きかんしや》のやうに驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察まうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠《よ》ることにした。又|仕合《しあはせ》なことにさきに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。昭和七年以来の彼女
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