へて見ると、その一生を要約すれば、まづ東北地方福島県二本松町の近在、漆原といふ所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけてゐるうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留《とど》まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であつた中村|彜《つね》、斎藤与里治、津田|青楓《せいふう》の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加はり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るやうになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中してゐたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるやうな月日も漸く多くなり、その上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びようが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》ひ、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。やがて更年期の心神変調が因《もと》となつて精神異状の徴候があら
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