の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は曾《かつ》て油絵具で成し遂げ得なかつたものを切紙によつて楽しく成就したかの観がある。百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐《あゐれん》の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。
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九十九里浜の初夏
私は昭和九年五月から十二月末まで、毎週一度づつ九十九里浜の真亀納屋といふ小さな部落に東京から通つた。頭を悪くしてゐた妻を其処に住む親類の寓居《ぐうきよ》にあづけて置いたので、その妻を見舞ふために通つたのである。真亀といふ部落は、海水浴場としても知られてゐる鰯《いわし》の漁場千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に沿つた淋しい漁村である。
九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方|太東岬《たいとうみさき》に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕《ごうとう》極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。
私は汽車で両国から大網駅までゆく。ここからバスで今泉といふ海岸の部落迄まつ平らな水田の中を二里あまり走る。五月頃は水田に水がまんまんと漲《みなぎ》つてゐて、ところどころに白鷺《しらさぎ》が下りてゐる。白鷺は必ず小さな群を成して、水田に好個の日本的画趣を与へる。私は今泉の四辻の茶店に一休みして、又別な片貝行のバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川を渡つて真亀の部落につくのである。部落からすぐ浜辺の方へ小径《こみち》をたどると、黒松の防風林の中へはいる。妻の逗留《とうりゆう》してゐる親戚の家は、此の防風
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