ザンゼルスでオリムピツクのあつた年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかつた。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五|瓦《グラム》入の瓶《びん》が空になつてゐた。彼女は童女のやうに円く肥つて眼をつぶり口を閉ぢ、寝台の上に仰臥《ぎようが》したままいくら呼んでも揺つても眠つてゐた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらつて解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだつた。その文章には少しも頭脳不調の痕跡《こんせき》は見られなかつた。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思つて東北地方の温泉まはりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化してゐた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台に臥《ふ》しながら、其を一々手帳に写生してゐた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語つた。さうした或る期間を経てゐるうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするやうになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のやうに私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思つて、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させてゐた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとつたが、病勢はまるで汽罐車《きかんしや》のやうに驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察まうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠《よ》ることにした。又|仕合《しあはせ》なことにさきに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。昭和七年以来の彼女
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