。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

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をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
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と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心を傷《いた》めた。幾度か実家へ帰つて家計整理をしたやうであつたが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩《ゆうとう》。破滅。彼女にとつては堪へがたい痛恨事であつたらう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いといふ寂しさはどんなに彼女を苦しめたらう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかつたのも其の性情から出たものとはいへ一つの運命であつた。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかつてしまつた。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があつたに過ぎなかつたのである。それでさへ年に一二度の往来であつた。学校時代には彼女は相当に健康であつて運動も過激なほどやつたやうであるが、卒業後肋膜にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかつて入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古を始めた所、そのせゐか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かつた。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであつた。しかし病気でも彼女はじめじめしてゐなかつた。いつも清朗でおだやかであつた。悲しい時には涙を流して泣いたが、又ぢきに直つた。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行してゐる頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかつた。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかつたのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来てゐた姪《めひ》や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じてゐた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言つた事があるといふ。丁度更年期に接してゐる年齢であつた。翌七年はロ
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