防ごうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮小し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其を草木染にしたり、機織を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作ったのが今でも残っている。同じ草木染の権威山崎斌氏は彼女の死んだ時弔電に、
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袖のところ一すぢ青きしまを織りて
あてなりし人今はなしはや
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という歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかったが、油絵製作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思っていた自己の芸術に絶望する事はそう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋から買って来たばかりの果物籠《くだものかご》が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあった。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなった。
彼女はやさしかったが勝気であったので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧《あいまい
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