ていた頃の事である。素よりそういう時の音楽への渇望は、純正な音楽への帰依から見れば、むしろ冒涜《ぼうとく》なのであった。しかし其の効果を別にして、交響楽の演奏者の数を予め作曲家が幾人以上と希望するいわれはないのである。
私は曾《かつ》て帝劇で、シュウマン ハインクのお婆さんの歌をきいた。その歌の巧拙は姑《しばら》く措《お》いても、その声のキメの細かさ、緻密《ちみつ》さ、匂やかさ、そうして、丁度刀を鍛える時に、地金を折り返しては打ち、折り返しては練ったあとのような何とも言えぬ頼もしいねばり強さと、奥深さとに驚嘆した。その声をきいてから、他の歌うたいの声をきくと、あまり筒抜け過ぎて、その歌が煙突から出るもののようにしか響かなかった。いつでも私の触覚は音楽をきく時の第一関門となるのである。
香とは微分子なのだそうである。肥くさいのは肥の微分子が飛びこむのだそうである。道理で私は香をも肌でかぐ。万物に匂の無いものはない。してみれば万物は常にその微分子を放散させているのである。自ら形骸を滅尽しつつあるのである。滅尽の度の早いのが香料だというだけである。微分子があまり一度に多量に飛びこむと圧迫
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