来ない。音楽堂の実物の音楽は、そこへゆくと、たとい拙くとも生きている。音が縦横に飛んで全身を包んで叩く。音楽が私を夢中にさせる功徳を、ただ唯心的にのみ私は取らない。其は斯《か》かる運動の恐ろしい力が本になっているのである。私は昔、伊太利《イタリー》のある寺院で復活祭前後に聴いたあの大オルガンの音を忘れない。私はその音を足の裏から聞いたと思った。その音は全身を下の方から貫いて来て、腹部の何処かで共鳴音を造りながら私の心に届いたようにおぼえている。
音楽の力が生理的要素から来るのは分かり切った事である。ワグネルの或音楽をきくと若い独逸《ドイツ》人は知らぬ間にポルーションを起すという。私にはその経験こそなけれ、其れに近い恍惚《こうこつ》を感ずる事は事実である。音楽に酔うというのは卑近に言えば酒に酔うというよりも、むしろマッサアジに酔うという方が近い。どうかすると性に酔うようなものである。其処を通りぬけて心霊に響くからこそ、あの直接性があるのであろう。私は一時、一晩でも音楽をきかないと焦躁《しょうそう》に堪えられない時期があった。今考え合せてみると、其れは私が制慾剤ルブリンで僅かに一日を支え
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング