書について
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脆弱《ぜいじゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一点|柔媚《じゅうび》の
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 この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行している。なまじっか習った能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

   一

 絶えて久しい知人からなつかしい手紙をもらったところが、以前知っていたその人の字とは思えないほど古法帖めいた書体に改まっている、うまいけれどもつまらない手紙の字なのに驚くような事も時々ある。しかしこれはその人としての過程の時期であって、やがてはその習字臭を超脱した自己の字にまで抜け出る事だろうと考えてみずから慰めるのが常である。やはり書は習うに越した事はなく、もともと書というものが人工に起原を発し、伝統の重畳性にその美の大半をかけているものなので、生れたままの自然発生的の書にはどうしても深さが無く、その存在が脆弱《ぜいじゃく》で、甚だ味気ないものである。

   二

 この生れたままの自然発生的な書というものにもいろいろあって、生れながらに筆硯的《ひっけんてき》感覚を多分に持っている人のは、或る点まで立派に書格を保有し、無邪気で、自然で、いい加減な習字先生のよりも遥に優れたものとなる。そういう例は支那人よりも日本人に多く、いつの間にか、性格まる出しの、まねてまねられない、或は奇逸の、或は平明清澄の妙境に進み入り、殊に老年にでもなると、おのずから一種の気品が備わって来て、慾も得もない佳い字を書くようになる。
 そういう佳品を目にするのはたのしいものであるが、さればといって、此を伝統の骨格を持ち、鍛冶《かじ》の効をつんで厳然とした規格の地盤に根を張った逸品の前に持ち出すと、やっぱり免れ難い弱さがあり、浅さがあり、何となく見劣りのするものである。人工から起ったものは何処までも人工の道を究めつくすのが本当であり、それには人工累積の美を突破しなければならないのである。生れながらに筆硯的感覚を持っている人のですらそうであるから、もともとそういう性来を持たない者の強引の書となると多くは俗臭に堕する傾がある。意地ばかりで出来た字、神経ばかりで出来た字、或は又逆に無神経ばかりで出来た字、ぐうたらばかり
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