は却《かえっ》て俗臭堪えがたいものになる。今日|所謂《いわゆる》六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらう態度の卑さから来るのである。そういう書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がいるのと同じ通理だ。かかる古|碑碣《ひけつ》の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途《みち》として之を究めるのがいいのである。
五
羲之《ぎし》の書と称せられているものは、なるほど多くの人の言う通り清和|醇粋《じゅんすい》である。偏せず、激せず、大空のようにひろく、のびのびとしていてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いている。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持っているところを見ると、よほど優れた良識を具《そな》えていた人物と思われる。右軍の癖というものが考えられず、実に我は法なりという権威と正中性とがある。献之になるともう偏る。恐るべき力量は十分ありながら、父の持っていたような天空海闊《てんくうかいかつ》の気宇に欠ける。それ以後の百星に至っては、おのおの独自の美を創《つく》り出していて歴代の壮観ではあるが、それぞれ少しずつ末梢《まっしょう》的なものを持っている。
六
書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。悪筆は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のような立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興って悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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