するのである。私が彫刻家でありながら彫刻の詩が少いのを怪んだ人が曾《かつ》てあったが、これは極めて表面的な鑑識であって、直接彫刻を主題として書いた詩ばかりが彫刻に因縁を持つのではない。詩の形成に於ける心理的、生理的の要素にそれが含まれているのである。だから多くの詩人の詩の形成の為方《しかた》と、私自身の詩の形成の為方とには何かしら喰いちがったものがあるように思われる。それは是非もない。
詩の世界は宏大《こうだい》であって、あらゆる分野を抱摂する。詩はどんな矛盾をも容れ、どんな相剋《そうこく》をも包む。生きている人間の胸中から真に迸《ほとばし》り出る言葉が詩になり得ない事はない。記紀の歌謡の成り立ちがそれを示す。しかし言葉に感覚を持ち得ないものはそれを表現出来ず、表現しても自己内心の真の詩とは別種の詩でないものが出来てしまうという事はある。それ故、詩はともかく言葉に或る生得の感じを持っている者によって形を与えられるのであって、それが言葉に或る生得の感じを持っていない者の胸中へまでも入り込むのである。ああそうだと人々が思うのである。それが詩の発足で、それから詩は無限に分化進展する。私自身
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