うかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作った。これも精神異状者を抱えながらの製作だったので思ったよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進《こうしん》に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思い出しても戦慄《せんりつ》を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍《いかいよう》となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になってしまった。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追われて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかったと思う。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けていると評した。やがて智恵子を病院に入れてから、朝夕智恵子の病状に気を引かれながらも少しずつ製作が出来るようになり、父の一周忌にその胸像を完成した。それから九代目団十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。団十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまった。今もそのままになっているが、これはもう一度必ず作り直す気でいる。西蔵《チベット》学者河口慧海先生
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