の首や坐像を記録的に作ったのもその頃である。今年はお許を得て木暮理太郎先生の肖像にかかりはじめているが未完成の事だから多くを語り得ない。

 彫刻家生活をつづけて居て、今最も残念に思うのは、西園寺公の肖像を作る機会を逸してしまった事である。父の生きているうちなら何とか方法もあったと思うのに、今となっては老公も亦年をとられてしまったし、又一介の在野の彫刻家としての私にはどうする事も出来ない次第である。政治家の面貌を見て彫刻的昂奮を感ずる事はめったにないのだが、西園寺公だけは以前から作りたかった。その風貌に深さと味いと豊かさと気品とが備っていて、存分に打ちこんで仕事が出来ると思っていた。公の風貌の日本的、東洋的なものには大きさがあり、高さがあり、こまかさがあり、汲み尽せないような奥の深い陰影があり、世界に示すに足りると思うのである。こういう方の在世時代に自分も生きていながら、ついにその彫刻を作り得ずにしまう事はのこり惜しいが是非もない。こういう類の深と大とのある風貌の人は当分日本に生れそうもないような気がする。中華民国には或はあるかも知れないが、中華民国となると又すっかり特質の違ったものに
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