くて美しかった。
彫刻頒布会を発表した頃、日本女子大学の桜楓会から校長成瀬仁蔵先生の胸像をたのまれた。丁度先生はその時永眠せられてしまった。お目にかかったのも逝去数旬前の病床に於いてであった。この胸像はなかなか出来上らず、毎年一個平均ぐらいに原型を作っては壊し、大震災の午前十一時五十八分四十五秒も丁度その胸像をいじっている時であった。その胸像は先生の十七回忌の年にやっと出来上って目白の講堂に納めた。長くかかったわりに思うように良く出来なかったので恥かしく感じた。その時代に中野秀人君や黄瀛《コウエイ》君や住友芳雄君の首も作った。住友君のが一ばん良かった。
今美術学校と黒田記念館とにある黒田清輝先生の胸像は二三年かかって其後つくった。これは黒田先生を学生時代によく見ていたので作りよかった。先生の頭蓋《ずがい》の形の特異さが殊に彫刻的に面白かった。所謂《いわゆる》法然《ほうねん》あたまである。この頃から私もだんだん彫刻性についての自分自身の会得に或る信念を持つようになった。
この胸像が出来てから間もなく、智恵子の頭脳が変調になった。それからは長い苦闘生活の連続であった。その病気をど
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